来年の7月には参議院選があるが、今年の衆議院選で落選した候補者も捲土重来を期しているという。ところで、戦国時代の武将は敗北を喫すると、悲惨な現実が待ち構えていた。そのいくつかの例を挙げておこう。

■敵兵に討ち取られるパターン

 戦いとは、どうやって終わるのだろうか。戦いの決着は、実にさまざまであった。もっともわかりやすいのは、敵の大将を討ち取ることである。

 永禄3年(1560)5月の桶狭間の戦いでは、今川義元が織田信長の配下にあった毛利良勝に首を取られた。義元の首が取られた情報は、ただちに今川方の将兵の間に広がった。

 すると、戦意を喪失した今川軍は国元へ撤退した。このように敵の大将を討ち取ることは、もっとも効果があった。むしろ、今川方の将兵が弔い合戦をすべく、反撃しなかったことが問題かもしれない。

 ただし、今川義元のように、大名当主が合戦中に討ち取られるというのは、実はレアなケースといえる。

 もっとも義元は討ち取られた時点だけでなく、後世になっても「鉄漿(おはぐろ)をするなど、公家化した軟弱大名」と罵られたのだから、誠に気の毒だった。

■自刃して責任を取るパターン

 籠城戦の最中に降参の意思を表明し、負けた側の大将が自刃することで、決着をつけることもあった。

 天正9年(1581)10月、鳥取城(鳥取市)の戦いでは、籠城する吉川方の将兵が厳しい兵糧攻めに耐えかねた。

 その有様は生き地獄さながらで、屈強な将兵も耐えがたい空腹だったという。降参の意を決した鳥取城主の吉川経家は、羽柴(豊臣)秀吉との交渉に臨んだ。

 その結果、自らが自刃して開城することで、城兵の命を助けるよう申し出た。秀吉は経家の家臣である森下道誉・中村春続が自害すればよいとしたが、経家は潔く切腹したのである。

 後世に経家は「あっぱれ!」と評価されたが、やはり死ぬのは嫌だっただろう。

 同様の例としては、天正8年(1580)1月の三木城(兵庫県三木市)における別所長治の例もある。

 三木城も秀吉による激しい兵糧攻めで籠城中の将兵が音を上げ、長治は和睦を決断するに至った。それは、一族全員が自刃するという、過酷なものだった。

 天正10年(1582)6月の備中高松城(岡山市北区)における攻防では、秀吉が毛利氏との和睦の条件として、清水宗治の自刃を求めた。

 宗治は船のうえで切腹したが、その子孫は毛利氏の家臣として生き残った。まだ、救いがあるのかもしれない。

■身内の裏切りや見殺しなど

 天正6年(1578)6・7月の第二次上月城(兵庫県佐用町)の戦いでは、秀吉方の尼子勝久らが上月城に籠って、敵の毛利方と戦っていたが、先述した別所長治の挙兵で状況が変わった。

 織田信長は秀吉に対して、三木城の攻撃を優先するように指示し、結果として上月城は見殺しにされたのだ。

 結局、上月城は開城し、尼子勝久は一族とともに自刃した。信長の非情の決断が招いた結果だった。

 変わった例としては、天正7年(1579)6月における八上城の戦いの結末を挙げることができよう。

 明智光秀に敗れた波多野秀治は、城内の和平派の城兵によって捕えられ、織田方に差し出された(『信長公記』)。その後、波多野氏は安土(滋賀県近江八幡市)に連行され、磔刑に処された。

 明智方の調略が功を奏し、八上城内の波多野氏家臣らを寝返らせることに成功したのである。当主が配下の者に見限られた事例だ。

■まとめ

 選挙では、候補者が公認を得られなかったり、候補を統一すべく立候補を断念するなど、悲喜こもごもである。

 しかし、強いていうならば、命まで落とすことはないのだから、戦国時代よりはまだマシなのかもしれない。