近年、中国が最新兵器を備えており、日本は危機に脅かされているという。ところで、大坂冬の陣の和睦のきっかけは、カルバリン砲による大坂城への集中砲火だったというが、その詳細とは。

■カルバリン砲とセーカー砲

 慶長19年(1614)にはじまった大坂冬の陣は、真田丸の攻防で大坂方が優位になったが、徳川方も諦めなかった。地下道を掘って、大坂城を攻めようとしたが、それは実現しなかったという。

 それよりも大きな威力を発揮したのは、徹底した力攻めだった。同年11月、徳川方は、イギリスからカルバリン砲4門、セーカー砲1門そして鉛を購入した(『慶元イギリス書翰』)。

 カルバリン砲とは、弾丸の重量が18ポンド(約8.1キログラム)クラスの中口径前装式大砲である。

 セーカー砲とは、弾丸の重量が5ポンドクラス(約2.2キログラム)の小口径前装式大砲である。ともに、長い射程距離を持つところに大きな特色があった。

 豊臣方も大砲を保持していたが、量的にも不足していたようである。徳川方が有利なのは、誰の目にも明らかだった。

■大坂城への集中砲火

 こうした最新兵器を用いて、徳川方は力攻めに転じた。昼夜を問わず大坂城に砲撃を加えたのは、砲術師の稲富正直であった。稲富正直は祖父の祐秀から砲術を学び、のちに稲富流砲術を創始した人物である。

 その腕は、家康からも高く評価されていた。大砲を扱うのは難しく、稲富正直のような専門家の指導が必要だったのだ。

 正直は大坂城を知り尽くした片桐且元の指示を得て、的確に砲撃を行ったといわれている。その砲弾は、淀殿の居間のある櫓を打ち崩し、侍女が七・八人ほども亡くなったという(『徳川実紀』)。

 徳川方の総攻撃に対して、大坂方が震え上がったのはいうまでもない。11月16日から19日にかけて行われた徳川方の砲撃は、遠く京都にまで聞こえ、砲声の音を聞きながら茶会を開いたと伝えられるほどだった(『義演准后日記』)。

 この砲撃は、これまでかたくなに和睦を拒み続けた淀殿の心境に変化をもたらしたという。それは、いつ死ぬかもわからないという恐怖心だった。

■和睦に転じた徳川方

 豊臣方は武器・弾薬が不足しており、銃に至っては木製のものを用いたほどであった。和睦をかたくなに拒んだのは秀頼も同じであったが、後藤基次がいうように「諸大名、内通の味方無く」という状況も看過しがたいものである。

 豊臣方ではこの期に及んでも、恩顧の大名たちが味方になってくれるという考えを持っていたと推測される。

 しかし、その淡い期待も叶うことはなく、和平を結ばざるを得ない情勢に追い詰められたのである。

 徳川方は真田丸の攻防で無謀な突撃を繰り返し、多大な人的損失を被った。遠隔地から大坂城に大砲を打ち込むことは、もっとも効率的かつ、究極の力攻めだったといえよう。

■まとめ

 戦争においては、優秀な将兵を雇うことが重要だったが、それだけでは十分ではなかった。最新の兵器を有効活用することにより、勝利を導くことができた。いかに豊臣方が和睦を拒もうとも、最新兵器の前では屈せざるを得なかったのである。