タリバンに占領されたアフガニスタンでは、今も難民が続出しているという。大坂夏の陣後、無慈悲にも行われた凄惨な「落人狩り」と人買い商人の暗躍については、あまり知られていない。以下、検証することにしよう。

■大坂城の落城

 慶長20年(1615)5月、大坂城は徳川軍の猛攻により、ついに落城した(大坂夏の陣)。これにより豊臣秀頼と母の淀殿は自害し、豊臣氏は滅亡した。

 大坂城落城後は、さながらの地獄絵図のようだった。『長沢聞書』という史料によると、豊臣方の死者の数は18,350人と伝えている。

 これに対して、『慶元イギリス書翰』は12万人、『日本キリシタン宗門史』には10万人という数が記されている。正確に数えるのは困難であるが、とにかく夥しい数の死者が出たというのは確かである。

■悲惨だった落人

 それでも、勝利した徳川方は別として、牢人(浪人)に加え、普通の庶民が数多く大坂城に籠城した豊臣方の落人の運命は実に悲惨だった。

 実際に大坂の陣に従軍した大久保忠教(彦左衛門)は、自身が執筆した『三河物語』の中で、次のように落城後の様子を記している。

大坂城に籠もった衆で命を長らえた者は、多くは具足を脱ぎ捨て裸になって、女性とともに逃げ散った。多くの女性は、北国、四国、九州、中国、五畿内、関東、出羽、奥州まで売られてしまった。

 大坂城に籠もった男性は具足を脱いで、裸で女性と逃げたが、女性は捕らえられて各地に売られたのである。大坂には人買い商人が存在し、各地に彼ら彼女らを売っていたのだ。

 同様に、人買い商人の浅ましさは、『義演准后日記』にも記されている。人買い商人は略奪した人々を、ときに海外にまで売買することがあった。

 戦国期にも人買い商人が暗躍した例が知られているが、大坂夏の陣でも見事に再現されたのである。

■戦場における略奪

 また、戦場では略奪も横行したことが知られている。浅井長政の家臣の娘「おきく」は、幼少から淀殿に仕えた縁で大坂城に籠城していた。

 落城時に「おきく」は、大奥の女中が途方にくれていたが、松平信綱の指図によって無事に脱出した。

 そして、脱出の途中に略奪にあったことについて、『おきく物語』の中で次のように語っている。

竹束の陰から、単物を着た者が錆びた刀を持ってやって来て、「金があれば出せ」と言われたので、懐から竹流しが2本あったので、これを差し出した。

 竹流しとは竹筒に金銀を鋳込み、必要に応じて切り離し、貨幣とした竿金のことをいう。おきくは乱入した兵に金品を要求されたが、たまたま所持していた竹流しを与えることにより、難を逃れたのである。

 おきくは難を逃れたが、中にはまさしく身包みをはがされるような人々も存在した。兵士は戦場での略奪によって、自らの懐を潤したのである。略奪は違った意味で、彼らの報酬となったのである。

■まとめ

 戦争というのは、何一つ良いことはない。それは古今東西変わらないことである。ここでは大坂の陣での例を見たが、近現代の戦争ではもっと悲惨なことが行われたのである。

■主要参考文献

渡邊大門『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』(星海社新書、2021年11月)