ここしばらくの間、政治家や芸能人の不倫報道が相次いでいる。他人には関係ないかもしれないが、感心しないのは事実である。今回は、情愛に溺れて明暗を分けた武将を取り上げることにしよう。

■秋山虎繁(1527~75)と岩村御前(?~1575)

 秋山虎繁は甲斐国武田氏家臣で、岩村御前との逸話がある。岩村御前は、織田信長の叔母である。信長は美濃国の岩村城(岐阜県恵那市)主・遠山景任と関係を深めようとした。

 そこで、信長は美女の誉れの高い叔母の岩村御前を景任と結婚させた。このことに強い危機感を抱いた武田信玄は、元亀元年(1570)12月に伊那高遠城主の秋山虎繁を差し向け、岩村城を攻撃した。

 結局、戦いの最中に景任は病死してしまう。一説によると、景任が岩村御前の美貌に心も体も奪われ、精力を吸い尽くされたからであるという。それほど美しい女性だったようだ。

 しかし、岩村御前は遠山家を出ることなく、信長から五男・御坊丸(のちの織田勝長)を養子として迎え、自らが実権を掌握したのである。

 同じ頃、虎繁による岩村城攻撃にも熱が入り、一帯を焼き払うなど落城も時間の問題かと思えた。しかし、岩村城は落城することなく、虎繁は焦るばかりだった。

 一方の岩村御前は、信長に援軍を要請するが、なかなか来ないことに苛立ちを感じていた。信長は信玄との戦いに軍勢を割かれ、岩村城へ差し向ける余裕がなかったのである。

 虎繁も岩村御前も互いに手詰まりの中、虎繁から思わぬ提案がされた。それは、岩村御前を妻に迎えたいというものだ。

 その条件として、養子の御坊丸を我が子として育てると提案された。この提案は、岩村御前の受け入れるところになった。

 こうして2人は結ばれ、甘美な生活が始まったものの、信玄が天正元年(1573)4月に亡くなった。

 当初、2人で育てるはずであった御坊丸は、人質として勝頼のもとに送られた。この話を聞いた信長は、軍勢を岩村城に送り込み、虎繁を降伏に追い込んだ。

 天正3年(1575)11月、虎繁と岩村御前の2人は信長によって処刑された。信長は虎繁を許すふりをして捕え、磔刑にしたといわれている。

■鍋島清房(1513~?)と慶誾尼(1509~1600)

 肥前龍造寺氏の家臣・鍋島清房と慶誾尼(けいぎんに)の逸話もおもしろい。永正6年(1509)、慶誾尼は、龍造寺胤和の娘として誕生した。のちに、慶誾尼は、水ケ江龍造寺家の龍造寺家周家のもとに嫁いだ。

 2人の間には隆信が生まれたが、周家は天文14年(1545)に亡くなった。やがて龍造寺本家が没落すると、隆信が本家の跡を継ぐことになった。隆信は20才だったが、将来が不安なこともあり、慶誾尼はある重大な決意をした。

 我が子が心配でならなかった慶誾尼は、家臣の鍋島清房の子・直茂に目を付けた。直茂は知略溢れる武将であった。慶誾尼はこれだけの人物ならば、きっと隆信の力になってくれるであろうと思い、将来を託してもよいと考えたのである。

 その方法は、慶誾尼が妻を亡くした直茂の父・清房に良い女性を紹介しようと持ちかけ、自らがその妻に名乗り出る作戦だった。

 当時、慶誾尼は50才に手が届こうという年齢だったが、清房は断ることができなかったという。こうして隆信と直茂は、義兄弟の縁で結ばれたのだ。

 慶誾尼は半ば押し掛け女房的な形で、清房と結ばれた。しかし、慶誾尼の目に狂いはなく、子の直茂は戦いや政治の舞台で活躍した。大友宗麟が大軍を率いて攻め込んだ際には、直茂が夜襲を計画すると、慶誾尼はこれを強く支持した。

 その姿は、承久の乱を前にした北条政子さながらであったと伝えている。結果は、龍造寺軍の勝利であり、大友軍は敗北を喫した。ところが、幸運はそんなに長く続かなかった。

 天正12年(1584)に隆信が島津氏に敗れて戦死すると、後継者は子の政家に譲られた。しかし、政家は残念なことに、政治的な能力に欠けていたという。その6年後、龍造寺家の政治は直茂に譲られた。これにより、龍造寺家は事実上の滅亡である。

 この決定については、慶誾尼も支持したと伝わっているので、冷徹な政治観を持っていたといえよう。慶誾尼は、慶長5年(1600)に亡くなった。享年92。没年をめぐっては、あまりに長命なため異説もある。

■まとめ

 この2つの例は、男性から結婚を持ち掛けたもの、逆に女性から結婚を持ち掛けたものとケースは異なっている。とはいえ、武将側に下心があったのは事実なようで、悲惨な結末を迎えたのである。