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文面から怒り心頭ぶりがひしひしと… 歴史を変えた武将たちの手紙3選

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
書状はたくさん残っているが、歴史を変えるようなものもあった。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 勝者と敗者を物語る重要な史料はいくつも残っている。今回は、歴史を変えた手紙を3通取り上げ、その内容や背景を探ることにしよう。 

■豊臣秀吉が北条氏に送った「宣戦布告状」

 天正17年(1589)7月、北条方の猪俣邦憲は、真田氏の名胡桃城(群馬県みなかみ町)を攻略した。真田氏からの訴えにより、豊臣秀吉は北条氏の討伐を決意した。その際、天正17年11月24日付で、秀吉が北条氏直に送ったのが有名な宣戦布告状である。

 もう少し詳しく宣戦布告状を読み解いてみよう。実のところ、宣戦布告状は原本が残っておらず、複数の写しが残るにすぎない。

 本文は5ヵ条で構成されており、写しによって字句の異同があるものの、内容は同じである。秀吉が北条と対決するに至るまでの心情や経過を綴っており、誠に興味深い内容といえる。

 1条目は、氏直が秀吉を蔑ろにして関東で勝手な振る舞いをしたので、秀吉が討伐しようとしたところ、縁者の家康を通して詫びを入れてきたので、氏規の上洛をもって赦免することにしたと書いている。

 2・3ヵ条目は、それ以前の北条と真田との領土画定の経過を記し、面会に訪れた北条方の板岡部江雪斎のことなどが記されている。そして、4ヵ条目で名胡桃城事件のことが取り上げられ、秀吉は弁明のために派遣された北条の使者に会うことなく、追い返したという。

 5ヵ条目には、秀吉の生い立ちから北条討伐の決意が吐露されている。以下、その内容である。

(秀吉は)若年から織田信長の配下となり、昼夜を問わず軍功に励み、やがて世間に名を知られるようになった。信長から中国計略を申し付けられた際、明智光秀が信長を討ったので、(秀吉は)光秀の首を討って仇をとった。その後、柴田勝家を討つなどし、今や麾下に属さない大名がいなくなった。

 ところが、氏直は天道の正理に背き、帝都(京都=天皇)に奸謀を企てたのだから、天罰を蒙るのは当然のことだと秀吉は喝破する。

 こうして、秀吉は氏直に宣戦布告を行い、翌年に小田原城を攻撃した。結果は周知のとおり秀吉の圧勝で、北条氏は滅亡したのである。

■直江兼続が徳川家康を激怒させた「直江状」

 慶長5年(1600)4月1日、上杉景勝が徳川家康から上洛を迫られた際、家臣・直江兼続が痛快きわまる内容で家康に挑戦状を叩き付けた。それが「直江状」である。そもそも「直江状」は写ししか残っておらず、その写しにも字句の異動が多く、研究には困難が伴った。

 当初の「直江状」の評価は、「後世の好事家の創作」だったが、いずれも印象批判に止まっており、詳しい分析はない。「直江状」の評価は漠然としたものだったが、後世の偽作あるいは創作とする説が定着した。

 一方で、「直江状」は前後の傍証がはっきりとしており、内容も当時の事情と矛盾するところがなく、上杉氏の立場をよく示しているので、偽文書ではないとの主張もある。

 また、「直江状」の文面は『古今消息集』所収の豊臣家中老奉行連署状の文面と一致するので、「直江状」の内容は信頼してよいとし、追而書(おってがき:追伸)はのちに偽作挿入された可能性があるとの指摘がある。

 一方で、「直江状」に後世の人の手が加わった可能性は否定できないが、当事者しか知りえない情報があるので、兼続が書いた原本または写しが存在したとの見解も示されている。

 このほか研究は多数に上るが、近年に至って、「直江状」を肯定あるいは容認する見解が多数を占めるようになった。逆に、「直江状」の字句を子細に検証し、偽文書であることを主張する向きもある。

 ともあれ、「直江状」を受け取った家康は激怒し、会津征伐を敢行した。関ヶ原合戦後、敗北した景勝は約120万石から約30万石へと大幅に減封されたのである。

■豊臣五奉行が徳川家康を討つよう檄を飛ばした「内府ちかひの条々」

 慶長5年(1600)7月、徳川家康は会津征討のため行軍していた。しかし、同年7月17日、石田三成を中心とする反徳川勢力は「内府ちかひの条々」を全国の諸大名に発し、家康への宣戦布告を宣言した。条文は全部で13ヵ条にわたっており、その主要な主張を要約すると、以下のようになろう。

①五奉行である石田三成、浅野長政を蟄居に追い込んだこと。

②前田利長を追い込んだうえに、景勝を討ち果たすために人質を取ったこと。

③景勝に何ら落ち度がないのに、秀吉の置目に背いて討ち果たそうとしていること。

 ①~③で強調されているのは、家康が誓紙や秀吉の置目(法度)を破ったということだ。家康が五大老・五奉行間で誓紙を交わしたにもかかわらず、それを反故にしたことが豊臣公儀を揺るがしたということになろう。

 とりわけ五奉行の石田三成、浅野長政が蟄居に追い込まれたこと、五大老の前田利家の後継者・利長が窮地に追い込まれたことは、三成や同調する毛利輝元や宇喜多秀家の危機感を煽る結果となった。

 おそらく家康は問題のある大名を処分し、豊臣公儀を守るために行ったのであろうが、輝元や秀家たちはそう感じることなく、「次は自分たちの番ではないか」と恐怖心を抱いたのかもしれない。

 この「内府ちかひの条々」をもって、のちに西軍を構成する秀家、輝元の大老、三成、玄以、長盛、正家の奉行と、東軍になる家康との関係は、決定的に決裂したといってもよい。

 「内府ちかひの条々」の全貌をつかんだ家康は、少なからず驚倒したことであろう。両軍の対決は、小規模な局地的な戦闘ではなく、列島全体を巻き込んだ大規模なものに発展する。その結果、東軍の家康は、西軍の諸将を打ち破り勝利したのである。

■まとめ

 歴史を変えた手紙には、意外にも原本が伝わることなく、本物か偽物か論争が続いたケースもあった。ともあれ、内容は激烈なものが多く、怒り心頭ぶりが伝わってくる書状が大半だ。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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