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【戦国こぼれ話】武田信玄が「自身の死を3年間秘匿せよ」と遺言した背景と真の理由とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
武田信玄の遺言の意図とは?(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 大永元年(1521)11月3日に武田信玄は誕生した。今年は信玄の生誕500年である。亡くなったのは、元亀4年(1573)4月12日であるが、その死に際して「自身の死を3年間秘匿せよ」と遺言したのは本当だろうか。

■信玄の西上と最期

 元亀3年(1572)、武田信玄は大軍を率いて西上の途につき、三方ヶ原の戦いで織田信長・徳川家康の連合軍を撃破した。これにより、信長らは大ピンチに陥った。

 ところが、翌年4月12日、信玄は西上途中の信濃伊那郡駒場(長野県下伊那郡阿智村)で病没したのである(亡くなった場所は諸説あり)。すでに、それ以前から信玄は血を吐くなどし、体調が悪化していたという。

 信玄の死後、家督を継承したのが子の勝頼である。勝頼は徳川家康に対抗すべく、積極的に遠江、三河へ軍事行動を展開した。偉大な父の跡を継いで、なかなかの頑張りを見せたのである。

 とはいえ、徐々に信長に追い詰められ、退潮が著しくなった。天正10年(1582)3月、勝頼は信長によって滅ぼされた。

■信玄が亡くなった際のエピソード

 信玄が亡くなった際のエピソードには事欠かない。信玄は「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」を命じたという。家臣の山県昌景には、「瀬田(滋賀県大津市)に武田軍の旗を立てよ」と命じたと伝わる。

 勝頼には「信勝(勝頼の子)の家督継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」と遺言を残した。以上のうち、「遺骸を諏訪湖に沈める事」というのは史実ではない。

 映画「影武者」(1980年公開)では、絶命寸前の信玄の姿を俳優の仲代達矢さんが見事に演じていた。非常に印象深い演技だったので、記憶に残っている人も多いはずだ。

 結局、勝頼は信玄の遺言を守り、葬儀を執り行わなかった。天正3年(1575)、勝頼は信玄の三周忌の仏事を催し、その翌年に恵林寺(山梨県甲州市)で信玄の葬儀を挙行したのである。

■まとめ 

 信玄が自身の死を3年間秘匿せよと言ったのには、いくつかの理由が考えられる。もっとも大きな理由は、信長らの勢力による反撃を恐れたからだろう。

 3年間という期間には明確な根拠がない。おそらく、それくらいの時間があれば、勝頼も立派に成長し、信長らに対抗しうる力を兼ね備えると信玄は考えたのだろう。

 とはいえ、当人が明確に理由を述べていないので、真相は闇の中である。

 なお、元亀4年(1573)2月、足利義昭は信玄が生きている前提で信長に挙兵をしたが、その目論見は見事に失敗した。

 義昭にすればアテが外れたわけだが、信玄が生きていたら大きく運命が変わっていたかもしれない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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