今月9日、滋賀県長浜市で「お城EXPO」滋賀県出張版が催され、大盛況だったという。滋賀県といえば、城郭の宝庫である。今回は、秋に行ってみたい滋賀県の城を3つ選んでみた。

■近世城郭の先駆けとなった安土城

 天正4年(1576)1月、織田信長は丹羽長秀を総普請奉行に任命し、安土城の築城を開始した。ところが、天正10年(1582)6月、城主の織田信長が本能寺の変で横死した。

 直後の山崎の戦いで明智光秀が討伐されたが、6月15日に安土城およびその周辺の建造物は焼失した。

 現在、安土城の天主(天守)は焼失したので、当時の趣を残すのは、壮大な石垣の遺構だけである。

 焼失前の安土城は、五層七重の天守閣が聳(そび)え立っていた。その姿は、ポルトガルの宣教師フロイスの『日本史』には、次のように記されている。

①天主(天守)は七重からなり、内外共に建築の妙技を尽くして造営された。

②内部は、四方に色彩豊かに描かれた肖像たちが壁全面を覆い尽くしていた。

③外部は階層ごとに色が分かれ、黒い漆塗りの窓が配された白壁、ある階層は紅く、またある階層は青く、最上階は全て金色であった。

④天主(天守)は華美な瓦で覆われており、前列の瓦には丸い頭が付けられ、屋根には雄大な怪人面が付けられていた。

 ただし、安土城の天主(天守)は現存しないため、古くから『日本史』や『安土日記』などの史料によって、激しい議論が交わされてきたが、未だに決着していない。

■建築当時の天守が残る国宝・彦根城

国宝・彦根城。
国宝・彦根城。写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

 彦根城は、慶長8年(1603)井伊直継に築城を開始したのがはじまりで、琵琶湖畔の彦根山を中心にして築かれた。

 工事は天下普請で行われ、3年後に天守が完成して直継が入城した。その後も工事は継続され、すべての工事が完了したのは元和8年(1622)のことである。

 彦根城の築城に際しては、佐和山城の佐和口多聞櫓と太鼓櫓門、観音寺城の建造物、小谷城の西の丸三重櫓、大津城の3層3階の天守などが移築、再利用された。

 彦根山上に本丸、西の丸、鐘の丸、山下に二の丸、三の丸を置き、三重の堀を南東にめぐらし、周囲は約4kmの広大なもので、東の麓には表御殿が建築された。

 安政元年(1854)、井伊直弼は天秤櫓の大修理に着手し、石垣の半分の積み直しが行われた。

 新たに積み直された落とし積みの石垣と、当初からのごぼう積みの石積みが混在しているのはそのためである。

 彦根城は国の特別史跡に指定され、天守や多聞櫓などは国宝である。城北側の玄宮園・楽々園(大名庭園)は、国指定の名勝になっており、貴重な建造物が多数残されている。

■羽柴(豊臣)秀吉が築城した長浜城

秀吉の居城だった長浜城。
秀吉の居城だった長浜城。写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

 元亀4年(1573)8月、羽柴(豊臣)秀吉の大活躍によって、近江浅井氏は滅亡に追い込まれた。織田信長は秀吉の軍功を賞して、当時「今浜」と呼ばれた地を与えたのである。

 今浜の地を与えられた秀吉は、早速、信長の「長」の字を拝領し、「今浜」から「長浜」へと改称したという。

 信長を敬ってのことであろうが、これは単なる俗説に過ぎず、事実ではないとも指摘されている。

 『豊鑑』によると、秀吉が今浜の地に城を築いたのは、信長の居城・安土城に近いので、仕官に差し支えないからだったという。

 そして、「今浜の名を変えて、長浜となむ(ん)」と記すだけで、ネーミングについて特に理由が記されていない。

 長浜城の築城に際しては、落城した小谷城の資材を用いたといわれ、密かに竹生島に隠されていた材木なども活用したという。

 築城には数年を要し、秀吉が入城したのは、天正3・4年(1575・76)のことだった。

 長浜城の石垣は湖水に浸かっており、直接、城内の水門から船が出入りできるように工夫がなされていた。

 また、城下町は小谷城下から移転させた。秀吉が初めて作った城下町であり、その後のモデルになった。

■まとめ

 滋賀県の3つの城を紹介したが、お城だけではなく、近くには博物館、資料館(滋賀県立安土城考古博物館、彦根城博物館、長浜城歴史博物館)があるので、ぜひ訪ねておきたい。