慶長19年(1614)10月にはじまった大坂の陣では、豊臣方に多くの牢人(浪人)が集まった。というのも、すべての大名は徳川家康に味方したので、豊臣方は失業中の牢人を頼るしかなかったからだ。以下、気になる人物を取り上げることにしよう。

■真田信繁(1567?~1615)

 真田信繁は昌幸の次男。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、父とともに九度山(和歌山県九度山町)に蟄居していたが、大坂冬の陣開戦とともに豊臣方に招かれた。

 信繁と言えば、軍装を赤で統一した「赤備え」と大坂城前に築城された真田丸が有名である。

 大坂冬の陣で、信繁は前田氏を相手に真田丸の攻防で勝利した。信繁は周到な作戦を用いたように言われているが、実際は軍令を無視し、無謀な突撃を繰り返した前田氏の失策が敗因だった。

 その後も信繁は豊臣家首脳に作戦を提案したが黙殺されたとか、あるいは徳川方から大禄を持って寝返りを持ち掛けられたなどの説があるが、史実であるか否か疑わしい。

 また、豊臣譜代の家臣は無能で、有能な信繁ら牢人衆の作戦を理解できず、戦いに負けたという話も「真田贔屓」にすぎない。

 慶長20年(1615)5月、信繁は徳川方に敗れ戦死したが、生き残って薩摩などへ逃れたとの説がある。むろん、史実とは認められないが、人々の心に信繁の奮闘ぶりが残ったからだろう。

■後藤又兵衛(1560~1615)

 後藤又兵衛基次は黒田家の家臣だったが、慶長11年(1606)に黒田家を出奔した。又兵衛は主君の長政と折り合いが悪くなったので、黒田家を去った。

 その後、又兵衛は仕官活動をしたが、池田家などからことごとく断られた。これは「奉公構」といい、長政が諸大名に対して「又兵衛を雇わないように」と通告していたからである。

 各地を放浪していた又兵衛は、大坂冬の陣開戦とともに豊臣方に招かれ、信繁とともに重用された。又兵衛は、「摩利支天の再来」といわれるほど期待されていた。

 一説によると、又兵衛は逃げる家康を討ち取ったという説があるが、むろん史実ではない。慶長20年(1615)5月、又兵衛は道明寺に出陣したが、味方の遅参などもあって、無念にも戦死した。

■塙直之(1567?~1615)

 塙直之(ばん なおゆき)は出自に不明な点が多い人物で、一説によると、非常に酒癖が悪かったと伝わっている。

 のちに、直之は加藤嘉明に召し抱えられたが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦を前にして嘉明と作戦をめぐって大喧嘩をし、加藤家を出奔することになった。

 以後、直之は小早川秀秋らに仕えるが、嘉明の執拗な「奉公構」に遭い、その度に失職した。一時期は出家して「鉄牛」と名乗ったという。大坂冬の陣がはじまる直前、直之は豊臣方に招かれた。

 本町橋の夜戦では、徳川方の蜂須賀氏の陣営を襲撃して軍功を挙げた。しかし、翌慶長20年(1615)4月の樫井の戦いで討ち死に。直之の戦死により、豊臣方は大いに士気が低下したのである。 

■薄田兼相(?~1615)

 薄田兼相(すすきだ かねすけ)も前半生が不明で、のちに豊臣秀吉に仕え、馬廻衆を務めたといわれている。一説によると、化け物退治で有名な岩見重太郎と同一人物であるというが、定かではない。

 大坂冬の陣では豊臣家に味方し、博労ヶ淵砦を守っていた。しかし、兼相が戯れている間、徳川方に砦を落とされるという大失態を演じた。

 ゆえに、兼相は「橙武者(橙は正月飾りとして見栄えがいいが、それ以外には役に立たないという意)」と揶揄された。

 慶長20年(1615)5月の道明寺の戦いで、兼相は先陣を切って敵兵を次々と打ち倒したが、最後は無念にも戦死したのである。

■まとめ

 ここに取り上げた牢人衆は、ほんの一握りにすぎない。牢人の多くは関ヶ原合戦で東軍に敗れ、知行を失った者である。

 彼らは人生の「一発大逆転」を狙って豊臣方に馳せ参じたが、無念の思いを抱きながら、豊臣家と運命をともにしたのである。

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