佐賀県唐津市の名護屋城博物館では、企画展「綺羅、星の如く 戦国の雄、肥前名護屋参陣」が開催されている。ところで、文禄の役といえば、大友吉統が甚だしい誤解で改易となったが、その真相とは。

■吉統の臆病な行為

 文禄2年(1593)1月に朝鮮軍が平壌の小西行長軍を攻撃すると、小西軍は苦戦を強いられ、黒田長政・大友吉統・小早川秀包に援軍を依頼した。

 しかし、援軍を要請された長政は兵力の不足を理由にして、救援に向うことがなかった。行長は仕方なく、平壌を撤収して鳳山へと逃れた。

 行長は、鳳山にいた吉統をあてにしていたが、この時点で、吉統はすでに鳳山を脱出していたという。

 行長は、ことの顛末を豊臣秀吉に報告した。吉統の大失態というべき逃走劇は、秀吉の耳にも入ったのである。

 なぜ、吉統は鳳山に逃れたのであろうか。その理由については、次のように整理されている。

①家臣の志賀親善が小西行長が戦死したと勘違いし、吉統に鳳山からの撤退を進言した。

②撤退に反対する家臣もいたが、志賀親善の強い反論によって、大友氏は混乱状態に陥った。

③結果、大友軍は鳳山を逃げ出し、黒田軍のもとに逃げ込んだ。

 吉統が鳳山を撤退した要因は、混乱する情勢の中で、適切な判断が下せなかったからだ。吉統自身も、逃亡(撤退というべきか)を責められたのは不本意であったに違いない。

 それでも、吉統は現地での談義に加わり、3月には秀吉から漢城を守備するよう命じられた。吉統が鳳山を放棄したことは大失態であったが、何とか事が収まったようである。

■秀吉の厳しい態度

 ところが、のちに秀吉は急転直下で態度を改め、吉統をはじめとする3名の武将に対して、厳しい態度で臨んだのである。

 同年5月1日、秀吉は朝鮮の戦いで臆病な行為をした、大友吉統、波多信時、島津忠辰の3名を改易という厳罰に処した(「島津家文書」)。

 このときの「勘当状」と称せられる長文の書状には、次の6ヵ条にわたって理由が記されており、秀吉の怒り心頭ぶりが伝わってくる。

①小西行長が戦っている最中、吉統は加勢することなく逃げ出した。

②吉統の逃亡は前代未聞のことであり、大変恥ずかしいことである。見せしめとして吉統とその一類を処分(殺害)するところであるが、助命して国を召し上げる。

③同様のことは、天正14年(1586)の豊薩合戦でもあった。そのときも処罰する予定であったが、不憫に感じたので実行しなかった。

④③のことを不問にするにしても、吉統に豊後国一国を安堵し、公家にも加えた。このことに感謝し、吉統および家臣が秀吉に尽くすと思っていたが、今回のことで豊臣一家まで臆病者と言われたことは無念である。

⑤吉統は、毛利輝元に預け置く。

⑥吉統の子・義述は、加藤清正の配下に組み入れる。

 ところで、吉統と同じく行長の救援に向なかった黒田長政や小早川秀包は処罰を免れている。吉統だけが処罰された点については、いかに考えるべきであろうか。

■吉統だけが処罰された理由

 まず、「梅北一揆」を改易の要因とする説がある。「梅北一揆」とは、文禄元年(一五九二)六月に島津氏家臣の梅北国兼が朝鮮出兵の途中で叛旗を翻し、肥後国葦北郡佐敷城を奪取した事件である。

 このとき、一揆の黒幕と考えられる島津歳久(義久の弟)は、大友吉統の一味だったという。このことが朝鮮での失態と相俟って、吉統が豊後を取り上げられた要因とする。先に示した③も原因に加えられているので、過去の失態を取り上げたことになる。

 別の説としては、秀吉が石田三成ら奉行人の讒言を信じたからであるという(『大友家文書録』)。吉統の悪い評価が、三成から秀吉に伝わった可能性も十分にある。

■諸大名へのみせしめ

 さらに別の説もある。吉統の犯した逃亡劇は、大名間の結束のルーズさに要因があり、吉統らの改易の理由を他の諸大名に対する「見懲り(見せしめ)」とする指摘だ。

 この結果、島津氏や加藤氏は、領国内における兵粮・武器の調達や百姓からの年貢徴収に力を入れている。いうなれば吉統の処分は、綱紀粛正ということになろうか。

 改易を恐れた島津氏や加藤氏をはじめとする諸大名は、兵粮や武器の調達や年貢収奪の強化に乗り出した。こうして秀吉を恐れた諸大名は、「手を抜くこと」ができなくなったのだ。

■まとめ

 吉統だけが厳しい改易処分となった理由は、上記のとおり諸説ある。文禄の役は、最初こそ日本軍が優勢に戦いを進めたものの、やがて少しずつ劣勢になった。

 そこで、秀吉は吉統の過去の失態を蒸し返すだけでなく、スケープゴートとして処分することで、綱紀粛正を図ろうとしたのだろう。吉統にとっては、実に気の毒なことだった。