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【戦国こぼれ話】本能寺の変で危機一髪。安土城から織田信長の家族を連れ出したのは蒲生氏だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
本能寺の変後、安土城内は大パニックになった。(写真:ogurisu/イメージマート)

 10月10日、滋賀県日野町で、蒲生氏の居城・中野城をめぐるツアーが行われた。城主の蒲生賢秀は、信長の家族を安土城から連れ出し、危機から救ったという。その真相とは。

■蒲生氏と中野城

 蒲生氏は六角氏の家臣だったが、賢秀(かたひで)の父・定秀の代になって織田信長に仕えた。その居城が中野城である。では、中野城とは、どんな城だったのだろうか。

 中野城は、滋賀県日野町に所在した平山城である。かの蒲生氏郷が誕生した地としても知られている。

 蒲生氏は同じ日野町に音羽城を築いており、敢えて混同を避けるため、日野城ではなく中野城と呼んでいる。

 中野城は日野川近くの丘に築城されたが、今残っている遺構は、本丸の一部と空堀、土塁にすぎない。本丸の井戸の跡は、氏郷の産湯と伝わっている。

■本能寺の変と蒲生氏

 天正10年(1582)6月2日、信長は本能寺の変により横死した。当時、安土城(滋賀県近江八幡市)には信長の家族が住んでおり、賢秀が警備をしていた。「信長死す」の一報は、ただちに安土城に伝わった。

 その後、賢秀はこの危機に対して、どのように対応したのだろうか。その点は、信長の一代記『信長公記』で確認することにしよう。

■『信長公記』に見る賢秀の救出劇

 同年6月2日、風が吹くように「信長死す」の一報は安土城に伝わった。むろん、信長だけでなく、嫡男の信忠や家臣らも亡くなった。この報告を受けた城中の者は、驚いて騒ぎ出す始末だった。

 城中の者は、それぞれの身の処し方に精一杯で、泣き悲しむことすらしなかった。彼らは日頃の貯えや重宝にも目もくれず、家を打ち捨てて妻子とともに本国の美濃・尾張へと逃げ出した。

 6月2日の夜、信長の家臣の一人である山崎片家は家を焼いて、山崎城(滋賀県彦根市)へと退いた。

 すると、覚悟を決めた賢秀は、信長の家族をとりあえず居城のある日野に連れて行くことを決意した。

 そこで、子の賦秀(やすひで:のちの氏郷)に対して、腰越(滋賀県近江八幡市)に迎えに来るよう命じ、牛馬や人足を召し寄せたのである。

■金銀財宝を置いて逃亡

 6月3日、逃げようとした上臈衆は、天主にある金銀・太刀などを持ち出したうえで、城に火を放とうとした。

 しかし、賢秀は無欲の人だったので、金銀などを持ち出すことなく、すべてを焼き払うのが冥加(神仏の加護・恩恵に対するお礼)になると述べた。

 ましてや、逃亡の際に金銀などを持ち出したとあれば、天下の笑いものになると賢秀は言ったのである。

 結果、金銀などを持ち出すことなく、上臈衆に警固を付け、城から逃げ出した。上臈衆の足からは、血が流れていたという。

■まとめ

 本能寺の変後、安土城にいた者たちは、我先にと逃亡した。しかし、賢秀は覚悟を決めて、信長の家族を脱出させた。金銀などを持ち出さなかったのも、賢明な判断だったのかもしれない。

 賢秀の行為は大いに評価され、のちに子の賦秀は豊臣政権下で重用されたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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