【戦国こぼれ話】明智光秀は家臣思いの優しい武将だったといわれているが、本当は残酷だった
滋賀県大津市の歴史博物館では、明智光秀の菩提寺で同市内の西教寺の歴史を紹介する企画展「西教寺―大津の天台真盛宗の至宝」がはじまった。ところで、光秀は家臣思いの優しい武将だったといわれているが、それは事実なのだろうか。
■家臣思いの明智光秀
明智光秀の書状は百六十余通が残っているが、土豪らが病気に罹ったり、合戦で怪我をした際に養生を勧めたものが多い。
丹波の土豪・小畠氏、山城の土豪・革島氏宛の書状はその好例だろう(「小畠文書」「革島家文書」)。
ところが、こうした例が極めて珍しいのかと言えば、決してそうではない。ほかの大名も同じことで、病気や怪我をした家臣や土豪に書状を送り、養生を勧める例はある。
西教寺の例で言えば、元亀4年(1573)5月、光秀は討ち死にした家臣らの菩提を弔い、西教寺に寄進を行った(「西教寺文書」)。こうしたことにより、光秀は家臣思いだったといわれている。
とはいえ、これだけの材料で光秀を家臣思いというのには、やや違和感がある。主君たる大名は合戦で家臣が討ち死にした場合、その子に家を継がせ、遺領を安堵することはままあったことである。
なぜ、光秀だけでなく、大名がそこまで家臣らに配慮をするかと言えば、家中における求心性を高めることが目的だった。
現在でも、会社の社長が部下の親が亡くなったりすると、香典を贈ったりするだろう。あるいは部下が病気で入院すると、社長が見舞いに行くことがあるだろう。同じ理屈である。
■実は残酷だった光秀
一方で、光秀の残酷な姿を紹介しなければフェアではないだろう。天正7年(1579)に比定される光秀の書状(和田弥十郎宛)には、以下に示すように波多野氏が籠る八上城の攻防の詳しい戦況が述べられている(「下条文書」)。
八上城内から、城を退くので命を助けてほしいと懇望してきた。すでに籠城した兵卒は、4・5百人が餓死していた。
城から運ばれてきた餓死者たちは、顔が青く腫れて、顔つきが人間のようではなかったという。
光秀は5~10日ほどで八上城を討ち果たし、1人も逃さないよう、付城に加えて塀、柵、などを幾重にもめぐらした。
同年5月6日の光秀の書状には、さらに戦いが進展した様子がうかがえる(「小畠文書」)。
八上城の本丸はすでに焼き崩れた状況だったが、光秀はすぐに城へ攻撃することは控え、敵兵を徹底して殺戮する方針を取った。
また、乱取り(兵卒による略奪)がはじまると、敵兵を討ち漏らしてしまうので禁止された。敵の首はことごとく刎ね、首の数に応じて恩賞を与えるとしている。
『信長公記』によると、八上城内は飢えで苦しむ人が苦しい生活を強いられていたという。最初は草や木の葉を食べていたが、それが尽きると、今度は牛馬を食べて飢えを凌いだ。
最後は城内の兵が空腹を我慢できずに城外に食糧を求めて飛び出すと、たちまち光秀軍の兵に討ち取られたという。
光秀は城内の厭戦ムードを察知して、調略によって秀治ら三兄弟を捕縛することに成功したのである。
八上城における光秀の作戦は、残酷そのものである。
■まとめ
「家臣思いの光秀」、「残酷な光秀」というのは、ともに正しい見解であるといえる。片方を強調するのは、決してフェアではない。光秀の真の姿を見えにくくするばかりである。
その理屈は、家中統制のときは家臣を懐柔し、敵と戦うときは見せしめのために残酷な所業を平気で実行するという、当時の戦国大名の平均的な姿である。この点を見過ごしてはいけないだろう。