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【戦国こぼれ話】明智光秀が土岐明智氏の流れを汲むという確証はまったくないという衝撃の事実

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀が土岐明智氏の出身という確証はない。(提供:アフロ)

 先日、テレビの歴史番組を見ていると、明智光秀が土岐明智氏の流れを汲むと指摘していた。しかし、その事実を明確に示す根拠はないので、この機会に取り上げることにしよう。

 なお、私が「明確な根拠がない」と言うのは、一次史料(同時代の古文書)に書かれているのではなく、後世に成った信憑性の低い二次史料(系譜、軍記物語など)にしか書かれていなければ、史実として認めがたいということである。

■光秀の父の名前はバラバラ

 光秀の出身地については、かつてこちらに書いた。現在、光秀は岐阜県可児市に本拠を持つ、土岐明智氏の流れを汲むという説が有力であるが、明確な根拠はないのである。

 そもそも、光秀の生年に諸説あるのは致し方ないとして、父の名前すら一致しないという問題がある。以下、諸書にあらわれる光秀の父の名前を挙げておこう。

①光綱――『明智系図』(『系図纂要』所収)、『明智氏一族宮城家相伝系図書』。

②光隆――『明智系図』(『続群書類従』所収)、『明智系図』(『鈴木叢書』所収)。

③光国――『土岐系図』(『続群書類従』所収)。

 共通するのは、「光」字だけである。もっとも大きな問題は、光秀の父はまったく一次史料には登場せず、あくまで系図などの二次史料にしかあらわれないという事実である。

 つまり、上記の系図は江戸時代になって作られたものであるが、すでにその時点で光秀の父はわからず、適当に父の名前を考えて創作したとしか思えないのである。

■光秀の前半生はわかりません

 実は、織田信長に仕えるまでの光秀の前半生はまったく不明である。かつて、「光秀が医者だった」という説が話題となったが、医薬書の末尾に署名があるだけで、そんなものでは根拠にならない。

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、美濃の戦国大名・斎藤道三の家臣だったように描かれていたが、それも二次史料に基づいた創作にすぎない。一次史料には、明確に登場しないのだ。

 光秀は美濃の名門・土岐明智氏だったから、斉藤氏に仕えて重用され、やがて信長の配下になったといわれている。

 しかし、光秀は土岐明智氏の出身どころか、父の名前さえわからない怪しい人物なのである。

■勝手に作られた系図

 光秀のように父の名前や先祖がよくわからない人物は、決して珍しくない。同じ頃に活躍した荒木村重も同様で、出自がよくわからないのである。

 同時に、系図もアテにならないのは、よく知られたことである。織田信長は、平資盛の流れを汲むと言っているが、それは誤りである。勝手に自称しているにすぎない。

 黒田官兵衛も、先祖は近江佐々木氏の佐々木黒田氏の流れを汲むといわれているが、こちらも確かな根拠がないのである。勝手にそう言っているだけだ。

 光秀の場合も同じことで、途中で家が断絶した土岐明智氏の系譜を探し出し、勝手に先祖をドッキングさせたと考えられる。だから、父の名もバラバラで、光秀の前半生も創作せざるを得なかったのだ。

■まとめ

 もし、「光秀の父は誰か?」あるいは「光秀の先祖は?」と質問されたら、「わかりません」と言わざるを得ない。ただ、光秀の親類が美濃にいたので(『兼見卿記』)、美濃出身の可能性は高い。

 ところで、番組では「かごめかごめ」の歌詞の中の「鳥」と「土岐」を強引につなげていたが、意味がまったくわからなかった。わかった人はいたのだろうか???

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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