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【戦国こぼれ話】岐阜県内には、明智光秀の出生地が2つあったという驚愕の事実を検証する

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀は、恵那市それとも可児市のいずれの出身なのだろうか?(提供:アフロ)

 岐阜県恵那市観光協会明智支部は「明智姓の始まりと光秀誕生」という郷土史解説ガイドを刊行したが、明智光秀の出生地については、恵那市と可児市の2つの説がある。どちらが正しいのだろうか?

 明智氏の出身地については、2つの説が有力視されている。1つは岐阜県恵那市明智町であり、もう1つは岐阜県可児市広見・瀬田である。互いに「明智」の名を冠していることから、非常にややこしいことになっている。

■恵那市の説

 恵那市には明知城址(恵那市明智町)があり、城址には光秀学問所の跡に建てられた天神神社、光秀産湯の井戸の跡が残っている。

 近隣の龍護寺には、光秀の直垂などが伝わり、光秀にまつわる史跡や遺物があることから、現在も「光秀祭り」が催されている。

 ただし、光秀の先祖が岐阜県恵那市明智町の出身とするのには、難があると指摘されている。恵那市明智町は、遠山明智氏の出身地といわれているからだ。

 遠山明智氏は藤原北家利仁流の流れを汲み、13世紀の半ば頃、遠山景朝が明知城に本拠を築いた。この景朝こそが、遠山明智氏の祖である。

 戦国期に至ると、遠山氏は織田信長に与して、武田信玄に敵対した。元亀3年(1572)、明知城は信玄に攻撃され、遠山景行は戦死したのだ。

 明知城の歴史を見る限り、一貫して遠山明智氏が支配しているのが明らかで(一時期を除く)、光秀の先祖の姿を一次史料で確認できない。

 岐阜県恵那市明智町は遠山明智氏ゆかりの地であって、光秀の出身とされる土岐明智氏に結びつけるのは難しい。

■可児市の説

 一方、岐阜県可児市広見・瀬田には、かつて石清水八幡宮の所領・明智荘という荘園があった。

 現地には今も明智城址が残っており、同城は付近の地名から長山城とも称されている。こちらが土岐明智氏の本拠だ。

 『美濃国諸国記』(作者不詳。17世紀中後半成立)によると、康永元年(1342)2月に土岐頼康の弟・頼兼が明智城を築いたという。頼兼が明智の始祖で、彼自身は明智次郎あるいは長山下野守と称された。

 しかし、『美濃国諸国記』は二次史料でもあり、その記述には不審な点が多いと指摘されている。

■光秀と明智城

 『明智氏一族宮城家相伝系図書』などによると、光秀は父の光綱が亡くなってから、叔父の光安(宗寂)を後見人として明智城に入り、美濃の戦国大名・斎藤道三の配下にあったという。

 ところが、弘治2年(1556)4月、道三が長良川合戦で子の義龍に討伐されると、道三に与していた光秀の立場はまずくなった。同年8月、光秀は義龍の攻撃を受け、9月になると自害さえ考えた。

 しかし、宗寂が自害を思い止まらせたので、光秀は子の光春らと明智城を脱出し、越前国へ逃亡したという。

 以降、光秀は牢人生活を余儀なくされたが、のちに越前で朝倉義景に仕え、その後は足利義昭の配下に加わった。

 『明智氏一族宮城家相伝系図書』などの逸話の根拠は不詳であり、史実とはみなし難い。道三に仕えていたこと、義龍の攻撃を受けたことなどは重要な出来事だが、一次史料では確認できないという問題がある。

■謎の光秀の出自

 以上のように、明智氏に関する系図や軍記物語の記述を見る限り、かなり混乱している状況がうかがえる。それらの記載だけでは、光秀の生年、出身地などを知るのは、ほぼ不可能である。

 可児市広見・瀬田が土岐明智氏の本拠であることは首肯できるが、光秀が明智城に在城していたかは不明といわざるを得ない。

 つまり、光秀が土岐明智氏の系譜に連なるのか否かは、はっきりと明言できない。おそらく違うだろう。

 とはいえ、冊子の刊行をきっかけにして、光秀の出身地をいろいろと考えるのもおもしろいだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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