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【戦国こぼれ話】石田三成が豊臣秀吉に登用されたのは、お茶を点てるのが上手かったからではない

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
石田三成の「三献の茶」の逸話は事実なのか。(提供:アフロ)

 先日、永青文庫で書物の裏に書かれた石田三成の書状が発見された。お茶の記録もあるらしい。三成といえば、秀吉との邂逅を示す「三献茶」の逸話が有名であるが、事実とみなしてよいのだろうか。

 永禄3年(1560)、石田三成は正継の子として誕生した。三成が出生した場所は、現在の滋賀県長浜町石田町といわれている。

 同地には、三成の官途である治部少輔にちなんだ、「治部」という小字が残っているくらいだ。

■石田三成と「三献の茶」の逸話

 三成は、いつどこで秀吉と出会ったのだろうか。この件については、有名な「三献の茶」の逸話が知られている。

 出典は、江戸時代に成立した『志士清談』、『名将言行録』、『武将感状記』である。次に、『武将感状記』を現代語訳して挙げておこう。

 石田三成は、ある寺の小僧だった。秀吉は一日放鷹に出て、喉が渇いた。秀吉は三成がいる寺に着いて、「誰かいないか。茶を点てて持って来てくれないか」と頼んだ。

 すると、三成が大きな茶碗に七・八分目にぬるい茶を点ててきたので、秀吉はこれを飲むと、「これはうまい。もう一杯」と所望した。

 三成は茶を点ててきたが、今度は前よりも少し熱くして茶碗の半分より少な目だった。秀吉はこれを飲むと、試しに「もう一杯」と所望した。

 三成は、小さな茶碗に少し熱く茶を点てた。秀吉はこれを飲むと、三成の心遣いに感じ入った。

 そこで、寺の住職に頼み込んで、「三成には才覚があるので、少しずつ取り立てて奉行職を授けたい」と言ったという。

■裏付けとなる史料はなし

 あまりに有名な逸話であるが、史実とみなすにはたしかな史料の裏付けがない。したがって、この話は三成が幼い頃から才覚があったこと、秀吉がそれを鋭く見抜いて登用したという、単なる創作に過ぎないだろう。

 長じて名の知られた大名の場合は、幼い頃から聡明だったという逸話に事欠かない例が多々ある。

 かの「軍師」と称された黒田官兵衛も、幼い頃から賢明だったというエピソードが残る(『黒田家譜』)。

 つまり、こうした話は後世になって創作されたものが大半で、一次史料(同時代の史料)で裏付けられないことが多い。話も大げさすぎて、まったく信が置けないのである。

■不確かな出会った場所

 二人が出会った寺については、はっきりと寺の名が書かれているわけではない。その候補としては、大原観音寺(滋賀県米原市)と法華寺三殊院(同長浜市)の2つがある。

 法華寺三殊院は三成の母の故郷であり、三成が幼い頃に手習いを受けたという伝承が残っている(『近江與地志略』)。

 「三献の茶」が創作とするならば、詮索をしても有意義とは言えないだろう。少年期の三成に関する史料は皆無であり、たしかな史料に登場するのは、天正10年(1582)以降のことだ。

 とはいえ、三成が若い頃から才覚があったのはたしかで、それは秀吉のもとで検地などの奉行を務めたことから明らかである。したがって、秀吉に人を見る目が合ったのは疑いないだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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