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【戦国こぼれ話】なぜ関ヶ原合戦は、関ヶ原で戦うことになったのか。誰も知らなかった意外な理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
石田三成の居城。佐和山城は近江と美濃との国境付近にあり、関ヶ原に近かった。(提供:アフロ)

 9月15日に行われた関ヶ原合戦は「天下分け目の戦い」といわれているが、関ヶ原が戦いの場所に設定された理由はご存じない方が多い。今回は、その理由を探ることにしよう。

■関ヶ原の地理的環境

 戦国時代の戦いは、おおむね国境付近で勃発したことがすでにいくつかの研究で指摘されている。慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原合戦も、実は同じである。

 以下、諸研究に基づき、関ヶ原の地政学的な分析から、関ヶ原が戦いの場所に選ばれた理由を考えることにしよう。

 関ヶ原は、現在の岐阜県不破郡関ヶ原町に所在する。古くから中山道・北国街道・伊勢街道の分岐点にもあたり、宿駅が置かれる交通の要衝だった。

 地理的にいうと、関ヶ原は岐阜県の南西端に位置しており、伊吹・鈴鹿両山地に挟まれた小盆地である。

 関ヶ原は、毛利氏が陣を置いた南宮山、家康が本陣を置いた桃配山、小早川秀秋の陣所の松尾山などの山々に囲まれていた。

■関ヶ原は関所だった

 そもそも関ヶ原の「関」とは関所を意味し、673年に天武天皇の命により設置された「不破の関」のことである。

 一般的に関所は、国境付近に作られる。それは、山、峠、河川など境界を示す地点に設置されるのが基本だった。

 関ヶ原に「関」が設置された理由は、飛鳥浄御原宮を守るためであり、鈴鹿関、愛発関とともに三関と称された。なお、不破の関は、現在の不破郡関ヶ原町松尾に所在した。

 不破の関は東国と畿内の境を結ぶ関所として、古くから重視されていた。しかし、その自然環境は極めて厳しく、雪量が非常に多いうえに風も強かった。

 天気が非常に不安定な地域でもあるがゆえ、冬場に人々が不破の関を越えて近江に入るのには、かなりの困難が伴ったといわれている。

■西軍の思惑

 西軍は、西国への侵入口の関ヶ原で東軍を討ち果たす必要があった。逆に、東軍が勝利を収めるためには関ヶ原で西軍を打ち破り、畿内へ進軍しなくてはならなかった。

 実は、石田三成の居城・佐和山城(滋賀県彦根市)の位置も戦いの場所に影響していた。佐和山城は近江と美濃の国境付近にあったので、三成としては、関ヶ原を東軍に突破されるわけにはいかなかったのだ。

■東西の結節点だった関ヶ原

 関ヶ原は東と西を分ける地点と認識されていたので、東西両軍が戦うにはふさわしい場所だったのである。

 これは、決して偶然なことではなかった。それゆえ三成率いる西軍は先回りし、関ヶ原への道を急いだと考えられる。こうして東西両軍は関ヶ原に結集して、総力戦で雌雄を決したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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