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【戦国こぼれ話】関ヶ原合戦迫る。五奉行が徳川家康の私婚を糾弾し、開始された権力闘争の闇とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
伊達政宗も徳川家康と私婚を進めた一人だった。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 9月15日は関ヶ原合戦。合戦前夜の模様を深掘りしておこう。合戦の前年、徳川家康は豊臣秀吉の遺命に背いて私婚を進め、五奉行(浅野長政・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家 )に指弾された。そこからはじまった権力闘争の闇とは。

■徳川家康の私婚

 慶長3年(1598)8月に豊臣秀吉が病没すると、徳川家康がほかの大名と無断で縁組をしたことをめぐり、五奉行らと対立する事件が勃発した。

 秀吉は大名間の縁組が同盟関係につながることを恐れ、文禄4年(1595)8月に御掟(「周南市美術博物館寄託文書」など)を定めた。

 その内容は、大名間の縁組にはあらかじめ秀吉の許可を得ること、そして大名間で盟約を結ぶことを禁止したものである。この規定は、秀吉の死後も有効だった。

 家康の私婚は、秀吉の「掟」に違反するものだった。一方で、秀吉は五大老間に限り、婚姻関係による結束を勧める掟を定めた。

 しかし、家康が結んだ婚姻関係の相手は五大老の子女ではなく、家康与党の伊達政宗、蜂須賀家政、福島正則らだった。つまり、家康が婚姻を通して、多数派工作、与党形勢をしたと思われたのである。

 一例を挙げると、家康は堺の町衆で茶人の今井宗薫の仲介によって、政宗と昵懇の関係となり、それが縁でそれぞれ子の婚姻が成立した(『伊達成実記』など)。

■家康と五奉行の暗闘

 両者の婚儀については、無断で秘密裏に実行されたこともあり、五奉行たちは怒り心頭に発した。五奉行は秀吉の「掟」を盾にして、婚儀を斡旋した宗薫を死罪にすると息まいた。

 ここまで五奉行が強い態度で臨んだのは、彼らが家康に対抗しうることを自任していたからだろう。

 しかし、家康と政宗は宗薫を死罪とするならば、合戦をも辞さないという強硬な態度を見せた。すると、家康らの強い覚悟を恐れた五奉行は、結果的に宗薫の死罪を取り下げたのである。

 慶長4年(1599)2月、家康は最終的に「掟」への違反を認め、五奉行に「掟」を遵守する旨を誓約し(「慶長三年誓紙前書」など)、私婚問題は解決したのである。

■大名間の対立構造

 最近の研究によると、私婚問題が顕在化した理由は、秀吉死後の大名間の対立構造がこの事件の背景にあり、それが表面化したものだったと指摘されている。

 まず、毛利氏と四奉行(石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以)、そして前田利家、浅野長政、宇喜多秀家のグループが形成され、家康の動きを牽制していたという。

 特に、四奉行が頼りにしたのは、前田利家だった。家康が政権の主導権を掌握し、多数派工作を展開していたことに強い危機感を抱いていたのだろう。

 一方、縁組問題では家康を支持する大名がおり、池田輝政、福島正則、黒田孝高・長政、藤堂高虎、森忠政、有馬則頼、金森長近、新庄長頼らがその主要なメンバーとして、グループを形成していた。

 彼らは家康与党として、その後も重要な役割を果たすことになり、関ヶ原合戦では東軍に与した。五奉行のなかでは、ひとり浅野長政だけが前田利家のグループに属していたことに注意すべきだろう。

■繰り広げられた権力闘争

 秀吉の死後は、家康や輝元を中心にして、政権内部で大名の派閥、系列化が図られていたのである。そして、以後はそれぞれが政権の主導権を握るべく、陰に陽に権力闘争が繰り広げられたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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