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【戦国こぼれ話】大坂夏の陣後、豊臣秀頼は薩摩に逃れて生き延びたのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
嵯峨釈迦堂(京都市)にある豊臣秀頼首塚。(写真:ogurisu/イメージマート)

 市民団体「姫路城を守る会」が千姫の体験用衣裳を姫路市に寄贈したという。千姫の夫・豊臣秀頼は大坂夏の陣で自害したといわれているが、薩摩に逃れたという説もある。その真相とは。

■豊臣秀頼は生きていた?

 慶長20年(1615)5月、大坂城は徳川方の攻撃により炎上し、豊臣秀頼は母の淀殿と自害して果てたといわれている。しかし、その後になっても、秀頼は生き延びたという説が流布していた。

 当時、日本に来ていたリチャード・コックスは、秀頼の遺体が大坂城で発見されなかったので、彼が密かに脱出したと信じる者が少なからずいる、と日記に記している(『リチャード・コックス日記』)。

 秀頼の行き先は、薩摩もしくは琉球であると噂された。この噂が影響したのか、当時、長崎代官を務めていた村山等安の子が、秀頼を探し出すため高砂島(台湾)まで行ったといわれている。

 それは、船を13艘も率いる大船団であった。本当に幕府がそこまでして、秀頼を探し出そうとしたのか確証はない。常識的に考えるならば、ありえないだろう。

■西洋に広まった秀頼生存説

 秀頼の生存説は西洋にも広まっており、17世紀後半に成立したクラッセの著作『日本西教史』には、秀頼が母と子を伴って辺境の諸侯(島津氏?)のもとに逃れ、兵を募り再挙兵しようとしたとの説が記されている。

 ただし、『日本西教史』は史料としての質がかなり劣るので、そうした噂を単に書き留めたということにすぎないだろう。とてもではないが、何か明確な根拠があるとは思えない。

■秀頼は真田信繁と薩摩へ!?

 そうした数々の噂が影響していたのか、当時、京童部は信繁と秀頼の生存を信じて、次のように唄っていたという(『幸村君伝記』)。

  花の様なる秀頼様を 鬼のやう成る真田が連れて 退きものいたよ加護島へ

 文中の「真田」は「信繁」、「加護島」は、現在の「鹿児島」を示す。文意は、鬼のような体つきの(あるいは強面の)信繁が花のように美しい秀頼を連れて、鹿児島に脱出したということになろう。

 しかし、実際の秀頼は、かなり体格が立派であったといわれており、「花のように美しかった」のかいささか疑問が残る。また、信繁も歯が抜けており白髪頭だったので、風体は老人のようであったと伝わっている。

 京童部の唄の内容と実態は、かなり乖離しているようだ。秀頼生存説は、「豊臣贔屓」の人々が流した単なる噂にすぎず、とても信用に当たるとはいえないだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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