【戦国こぼれ話】備前・美作の戦国大名だった宇喜多秀家は、能楽を得意としていた
藤井聡太二冠の王位戦七番勝負第1局の対局場は、名古屋能楽堂である。能楽と言えば、備前・美作の戦国大名だった宇喜多秀家が得意としていた。その背景などを考えてみよう。
■宇喜多秀家と能
宇喜多秀家は、直家の子として元亀3年(1572)に誕生した。豊臣秀吉から寵を受け、備前・美作などの大名として大出世をしたのは周知のとおりである。
実は、秀吉は能を愛好しており、秀家もその影響を受けて、能に親しんでいた。いや、強要されたといってもいいだろう。その辺りの事情を探ってみよう。
野上記念法政大学能楽研究所に所蔵される、『能之留帳』という史料がある。『能之留帳』に秀家が登場するのは、天正16年(1588)2月25日のことである。当時、秀家は17歳だった。
この日、大坂天満(大阪市北区)の下間少進法印邸能舞台で演能が執り行われた。演目は、「相生」「八島」「楊貴妃」「葵上」「松風」「長良」「百万」「猩々」の八番である。
同年11月10日、秀家を饗応するため、下間刑部卿法印(頼廉)邸で演能が催された。下間頼廉は、本願寺の坊官(事務に当たった在俗の僧)だった。
このときは、「芳野」「小督」「船弁慶」など七番が演じられた。ただし、秀家はあくまで観劇するに止まっていたことに注意しておきたい。
■能を演じた秀家
文禄2年(1593)10月5日、秀吉は御所で「禁中能」を開催し、配下の武将に命じて能を披露させた(「文禄二年十月五日禁中三日猿楽御覧記」)。
武将に能を演じさせるなどは、まさしく前代未聞の出来事だった。このとき、秀家は分別盛りの22歳。演じて見せたのは、「楊貴妃」である。
いうまでもなく、楊貴妃は唐の玄宗皇帝の后であり、傾国の美女と呼ばれたことは、あまりに有名である。
この「楊貴妃」という演目は、「定家」「大原行幸」とならび、「三夫人」呼ばれる名曲である。しかし、上演時間は相当長いものであるという。
秀家の演能を鑑賞した『三藐院記(さんみゃくいんき)』の記主・近衛信尹(のぶただ)は、「所存之外、見事也(思ったより見事だった)」と感想を漏らしている。つまり、出来は上々であったということになろう。
このように、秀家は以後も演能に携わるなどしたが、その費用はかなりの額だったという。また、秀家は秀吉に従って、鷹狩りにも熱心だった。
のちに宇喜多騒動という家中騒動が勃発するが、能や鷹狩りなどに掛る高額な費用も要因だったといわれている。