【戦国こぼれ話】なぜ、瀬戸内海で村上水軍が発展したのか。その理由を考えてみる
猛暑のなかの東京オリンピック。ヨットなどの種目は、やや涼しげに感じる。戦国時代、村上水軍は自由自在に船を操り、荒波の瀬戸内海を往来した。その秘密を考えてみよう。
瀬戸内海と言えば、村上水軍の活躍が非常に有名である。なぜ、村上水軍が瀬戸内海で大活躍したのか、さまざまな観点から考えることにしよう。
瀬戸内海は九州北部から中国・四国を経て、近畿地方の沿岸まで延々と続いており、東西の総延長は約440キロメートルにも及ぶ。かなりの長大さだ。
そして、瀬戸内海の東西には、大小約3000もの島々が点在し、海岸線は複雑に入り組んでいる。つまり、船で航行するには、多くの障害があったのである。
それだけではない。潮流が非常に強いところもあり、船で航行するうえで難所と呼ばれる箇所がいくつもあった。素人が瀬戸内海を航行しようとすれば、思わぬところに流されることもあった。
たとえば、明石海峡は約5ノット(時速約9.5キロメートル)の潮の流れであるが、鳴門海峡や来島海峡は約10ノット(時速約19キロメートル)という強い潮流だった。
つまり、瀬戸内海の島の多さや地形の複雑さもさることながら、潮の流れを熟知していなければ、たちまち船は難破という悲惨なことになったのである。
そんな瀬戸内海で活躍したのが、村上水軍だった。村上水軍は伊予能島、伊予来島、備後因島の3家に分かれ、もとは伊予河野氏の配下にあった。
彼らの主な役割は海上警固であり、遣明船が瀬戸内海を横断するときは、警固と水先案内を行った。
村上水軍は瀬戸内海の複雑な地形や潮の流れを知り尽くしていたので、先導役を果たしえたのである。
ところで、村上水軍は通行税を徴収していたことが知られている。従来、通行税は瀬戸内海を通行する船舶からむりやり巻き上げたと思われていたが、決してそうではない。
通行料は遣明船の場合と同じく、船を海賊から守り、安全に航行できるように先導する、一種の手数料のようなものだった。それゆえ村上水軍は、「海の領主」といわれたのである。
また、水軍は海上での戦いで大いに活躍した。天文24年(1555)の厳島の戦いで、毛利元就が陶晴賢の軍勢を打ち破ったのは、村上水軍の協力があってこそだったのである。