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【戦国こぼれ話】「日本のジャンヌダルク」と称された大祝鶴姫は、どんな女性だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大山祇神社は、鶴姫の生まれた場所だった。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 東京オリンピックは佳境を迎え、女子フェンシングも注目される競技だ。戦国時代にも刀を振るい、男子顔負けの活躍をした大祝鶴姫なる女性がいた。いったいどんな女性だったのだろうか。

 大永6年(1526)、鶴姫は大祝安用(おおほうり やすもち)の娘として誕生した。安用は、伊予国大三島(愛媛県今治市)の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)の大祝職を務めた人物である。

 母の名は妙林と言い、鶴姫には2人の兄がいた。鶴姫は女性でありながらも、兵書と兵術に優れていたというのだから、武芸の素養が十分にあったのだろう。

 天文10年(1541)、周防国の戦国大名・大内氏が海を渡って伊予に攻撃してきた。大内氏は中国・九州方面に勢力を拡大しており、伊予国もそのターゲットに入っていたのである。

 大祝氏は、河野氏や来島氏などとともに、これを迎え撃った。鶴姫は三島明神に戦勝の祈願をすると、甲冑に身を包んだ。

 そして、鶴姫は馬に乗って、馬上で大薙刀を振るうと、大内軍の将兵を次々と討ち取ったのである。

 この戦いで、鶴姫は兄の安房(やすふさ)とともに出陣し、大内方の武将・小原隆言を討ち取ったという。 

 いったん大内氏に勝利を収めたものの、この合戦では兄を失うなど、被害は大きかった。一度敗北を喫した大内氏は、必勝を期して再度攻め込んできた。

 鶴姫はまだ16才の少女だったが、馬上で「我は三島明神の権化なり」と大音声をあげ、敵陣に切り込んだという。

 鶴姫の勇猛果敢な戦いぶりは、男子も顔負けといえるもので、大祝氏を勝利に導いた。大内氏は、虚しく本国に引き上げたのだ。

 その2年後、大内氏は必勝を期して、腹心の部下である陶隆房を送り込んできた。陶氏は瀬戸内海における海上権の制圧を目論み、大祝氏が支持する河野氏を追い詰めた。

 鶴姫も以前に増して奮闘するが、恋人の三島陣代である越智安成が討ち死にするなど敗勢が濃くなった。このような状況下において、大祝氏は大内氏との和睦を模索した。

 しかし、ここで鶴姫は全軍を結集し、大内氏に反撃を加え、撃退に成功した。この勝利も、鶴姫の孤軍奮闘によるものであった。

 戦後、鶴姫は亡くなった兄や恋人を想い、三島明神へ参籠すると、その直後に入水自殺をした。勇ましさが強調されるが、本当は優しい女性だったのであろう。

 「わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」という辞世の句も残されている。以上の話は鶴姫伝説として、今も伝わっているものである。なお、亡くなったのは天文12年(1543)のことである。

 大山祇神社には、鶴姫が着用した紺糸裾素懸縅銅丸(重要文化財)が所蔵されている。女性では唯一の逸品であり、「日本のジャンヌダルク」にふさわしいものである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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