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【戦国こぼれ話】徳川家康が惚れ込んだ「築城の名手」藤堂高虎は、どのような城を築いたのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
江戸城外堀跡。藤堂高虎は、江戸城築城の主導的な役割を果たした。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 先月、三重県の「安濃津ガイド会」が「津城跡 石垣めぐりマップ」を作成した。津城(三重県津市)を大改修したのは、かの藤堂高虎である。高虎は、どのような城を築いたのだろうか。

 「築城の名人」といえば、間違いなく伊勢津藩の初代藩主・藤堂高虎だろう。高虎は弘治2年(1556)に誕生し、以来、主君を何度も変えたことで知られている。

 高虎がその度ごとに新しい主君に受け入れられたのは、その築城技術の確かさにあった。なかでも、高虎の築城技術を高く買ったのは、徳川家康である。

 慶長8年(1603)、幕府は各地の大名に対して、江戸城(東京都千代田区)の天下普請を命じた。それは、江戸城の改築に止まらず、道路や河川などの整備も含んでいた。

 当時、江戸城は質素な作りだったので、将軍家の居城としてふさわしいものを作ろうとしたのである。家康がもっとも頼りにしたのは。高虎にほかならなかった。

 高虎が担当したのは、江戸城の外郭石壁と石垣部分である。高虎は層塔式天守の築造をはじめたといわれ、その第一人者だった。

 また、城郭の周囲にめぐらす堀の設計、石垣を高く積み上げる技術では他の追随を許さなかった。江戸城の天守台や石塁の修築は、高虎が中心になって行われ、天下の名城としてその名が轟いたのである。

 元和4年(1619)、二代将軍・徳川秀忠は娘・和子の後水尾天皇への入内に先だって、京都の二条城(京都市中京区)の改修を行うことにした。その際、改修の設計を任されたのが高虎である。

 高虎は二条城の改修に際して、2枚の設計図を用意し、秀忠に2枚の設計図のうちから1枚を選ばせた。それには理由がある。つまり、実際に設計したのは秀忠であることにして、顔を立てようとしたのだ。

 高虎の細やかな心遣いが見られるが、これこそが何度も主君を変えても、主君に恵まれた証だろう。現在、二条城は世界遺産に登録されている。

 他にも高虎が築いた城は多い。居城だった上野城(三重県伊賀市)、「水城」として有名な宇和島城(愛媛県宇和島市)、豊臣家を監視するため築城された篠山城(兵庫県丹波篠山市)はその代表である。高虎は築城をもって、徳川家に登用されたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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