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【戦国こぼれ話】凄絶な死を遂げた、千徳政武の妻・お市とはいかなる女性だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
戦国女性は夫が敵に敗れると、厳しい生活を強いられることがあった。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 現代でも戦争が終わると、ひっそりと身を隠さざるを得ない状況が生じる。千徳政武の妻・お市も夫が戦死すると、逃亡生活を余儀なくされた。お市とは、どのような女性なのだろうか。

■お市と千徳氏

 永禄11年(1568)、お市は和徳城主・小山内出羽の娘として誕生した。幼名は市姫という。和徳城は、現在の青森県弘前市和徳町に所在した城である。小山内氏は、陸奥国の戦国大名・南部氏の家臣だった。

 やがて、お市は、同じ陸奥国の領主で田舎館城主の千徳政武の妻となった。千徳氏は南部氏の庶流で一戸氏の流れを汲んでいた。

 田舎館城はかつて青森県田舎館村に所在した城である。2人の結婚は政略によるものであり、千徳氏は小山内氏と結ぶことにより平穏を保ったと考えられる。

 2人の間には、一子があったという。しかし、戦国の世は、2人を安穏とした生活を許すことがなかった。東北の最北端においても激しい勢力争いが繰り広げられ、陸奥国では津軽為信が勢力を伸張し、南部氏配下の諸城を次々と落城に追い込んだ。

■千徳氏と津軽氏の戦い

 天正13年(1585)、津軽氏は使者を千徳氏に遣わして降伏を勧告したが、政武はこれを拒否した。これにより、津軽氏は約3000の兵を田舎館城に送り込んだ。

 受けて立つ千徳氏は寡兵だったため、苦戦を強いられた。そして、しょせんは多勢に無勢で、田舎館城は落城の憂き目にあった。城主の千徳政武は、配下の兵とともに戦死したのである。

 お市は子と乳母とともに城を落ち延び、その後は鬼沢村(青森県弘前市)の棟方孫左衛門に助けられたという。以降、お市の動向はわからないが、宗像氏に匿われてひっそりと生活をしたのであろう。

■お市の最期

 慶長6年(1601)、津軽為信は戦没者の法会を堀越城外の清水森(青森県弘前市)で執り行った。このときお市は法会に姿を見せると、焼香して戦没者の霊を弔ったあとに自ら命を絶った。

 その際、お市は「なき魂よ哀れと思へ添いせし三年の夢の覚めもやらぬに」、「その年のその日にやがて伴いて行く心を知るや知らずや」と辞世を詠み、侍女も「伴いて我も行きなん待てしばし死出の山路の道しるべせん」と詠んだ。

 2人は、抗議の意味を込めて辞世を詠み、自害をしたと考えられる。お市は、まだ34歳という若さだった。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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