慶長5年(1600)9月に勃発した関ヶ原合戦では、東軍を率いた徳川家康が見事に西軍を打ち破った。その後、東軍の諸将には、その軍功に応じて加増がなされた。その基準は、いったいどのようになっていたのだろうか。以下、そのランキングを挙げ、理由を示しておこう。

◎10位 田中吉政 三河岡崎10.0万石 → 築後柳川32.5 万石(+22.5万石)

 田中吉政は、西軍の岐阜城の落城に貢献。関ヶ原本戦がはじまると、吉政は石田三成の軍勢を打ち破った。吉政の最大の功績は、逃亡した西軍の将・石田三成を捕縛したことだった。逃亡した三成を捕らえるのは至上の命題だったので、大幅な加増をされたものと考えられる。

◎9位 福島正則 尾張清洲20.0 万石 → 安芸広島49.8万石(+29.8万石)

 福島正則は小山評定において、家康に味方することを宣言し、諸将が一斉に東軍に属したという逸話がある。池田輝政とともに東軍の先鋒を務め、岐阜城の落城に大いに貢献した。関ヶ原本戦では井伊直政に戦陣を譲ったが、西軍を撃破して軍功を挙げた。

◎8位 加藤清正 肥後熊本19.5万石 →  同左51.5万石(+32.0万石)

  加藤清正は関ヶ原本戦には出陣しなかったものの、黒田如水とともに、九州における西軍勢力の撲滅に貢献した。清正は家康との関係が悪くなり、一時は西軍に与するかと思われたが、それは回避された。加増されたのは、改易となった小西行長の旧領(肥後国南部)である。

◎7位 最上義光 出羽山形24.0万石 →  同左57.0万石(+33.0万石)

 最上義光は東北の抑えとして関ヶ原本戦には出陣しなかったものの、会津の上杉景勝と戦い、撃退した点が評価された。伊達政宗があいまいな態度を示したので、対照的に加増されたのだろう。これにより、最上氏は旧領の回復に成功した。

◎6位 黒田長政 豊前中津18.0万石 → 筑前福岡52.3万石(+34.3万石)

 黒田長政は関ヶ原合戦の開戦前、西軍の吉川広家、小早川秀秋を調略で東軍に引き入れることに成功。本戦でも石田三成の部隊を撃破した。また、父の如水は九州の西軍勢力を一掃し家康に貢献した。親子で貢献した点が総合的に加味され、大幅に加増されたと考えられる。

◎5位 前田利長 加賀金沢83.5万石 →  同左119.5万石(+36.0万石)

 前田利長は関ヶ原合戦時には西軍の丹羽長重と戦い、牽制することに成功した。関ヶ原本戦には出陣していないが、大老格の大名だったので、厚遇せざるを得ない事情があったと考えられる。

◎4位 池田輝政 三河吉田15.2万石 → 播磨姫路 52.0万石(+36.8万石)

 池田輝政は関ヶ原合戦の開戦前、福島正則とともに東軍の先鋒として出陣。岐阜城落城に際しては、大いに貢献した。関ヶ原本戦では目立った軍功がなかったが、側室の督姫が家康の娘だったことも影響して、厚遇されたと考えられる。

◎2位 蒲生秀行 下野宇都宮18.0万石 → 陸奥会津60.0万石(+42.0万石)

 蒲生秀行は関ヶ原合戦の開戦前、領国の宇都宮(栃木県宇都宮市)で徳川秀忠(家康の子)と合流した。家康が西上する際、宇都宮で会津の上杉景勝を牽制したが、目覚ましい軍功は確認できない。加増が2番目に多かった理由は、秀行が家康の3女・振姫を妻に迎えていたからだと考えられる。

◎2位 松平忠吉 武蔵忍10.0万石 → 尾張清洲52.0 万石(+42.0万石)

 松平忠吉は関ヶ原本戦の開戦時、井伊直政とともに先陣を切って、見事に初陣を飾った。敵の島津豊久を討ち取る軍功を挙げ、ゆえに蒲生秀行と並んで加増が2番目に多かったと考えられる。なお、忠吉が先陣を切ることができたのは、家康の子であるがゆえの配慮があったと考えられる。

◎1位 結城秀康 下総結城10.1万石 → 越前福井67.0万石(+56.9万石)

 結城秀康は家康に従って、会津征討に向かった。家康が西上する際、宇都宮(栃木県宇都宮市)に留まって、会津の上杉景勝を牽制したが、目立つような戦いぶりは確認できない。加増が1番だった理由は徳川一門だったことに加え、加賀前田家を牽制すべく、越前福井に配置する必要があったからだと思われる。

◎まとめ

 関ヶ原合戦後の恩賞配分は軍功に応じて配分されたといわれているが、結城秀康と松平忠吉は徳川一門だったので、別格と考えるべきだろう。そのほかの諸将に関しては妥当なところで、軍功がある程度正しく評価されないと、かえって家康に対する反発が強まる。そういう意味で絶妙な配分だったといえる。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

※石高の単位は、万石。
※石高の単位は、万石。