「立山黒部アルペンルート」が6月1日に全線開業50周年を迎え、「おもてなし武将隊」が佐々成政の「さらさら越え」をテーマに演舞を行った。ところで、成政は肥後国一揆の鎮圧に失敗し、自害に追い込まれた。その理由を考えてみよう。

■佐々成政のこと

 天正15年(1587)の九州平定後、国分によって肥後国を与えられたのは佐々成政だった。成政は尾張国の出身で、羽柴(豊臣)秀吉の配下に収まるまでは織田信長に仕えていた。信長の配下にあった成政は、桶狭間の戦いや美濃・斎藤氏の攻略で軍功を挙げ、のちに黒母衣衆の筆頭にまで昇進した。

 その後も、越前・朝倉氏の攻略や長篠の戦いでも活躍し、天正10年(1582)には越中国一国を掌中に収めた。しかし、同年6月の本能寺の変によって、成政の運命は暗転する。

 本能寺の変後、首謀者である明智光秀を討ち取り、天下人に名乗りを上げたのが秀吉である。しかし、成政は秀吉に従うことなく、反抗する姿勢を見せた。翌天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで、成政は柴田勝家に与したが、結果的に敗北を喫し、最終的に降伏に追い込まれた。

 それでも秀吉は成政から娘を人質として差し出されたので、越中一国を安堵した。ところが、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いにおいて、再び成政は秀吉に反抗の意を示し、徳川家康・織田信雄の連合軍に味方したのである。

■肥後を与えられた成政

 翌年8月、成政は秀吉に完全に屈し、臣従を誓約する。そして、天正15年(1587)の九州征伐では島津氏討伐で軍功を挙げ、ようやく秀吉の期待に応えた。こうして成政は、秀吉から肥後国を与えられ、政権の一翼を担うことになったのだ。

 なお、天草郡は除外され、肥後の有力な領主・相良長毎(さがら ながつね)は求麻郡を安堵された(「相良家文書」)。意気揚々とした成政は、早速肥後国支配に取り組んだ。一時は、秀吉に反抗して生命の危険にさらされたこともあっただけに、成政にとっては幸運といえるかもしれない。

 肥後に入部した成政は、領国支配の第一歩として、国中の検地を行おうとした。これは、かつて豊前六郡を与えられた黒田官兵衛の例と同じである。そして、在地の国人らの激しい抵抗にあったのも、まったく同じだったのである。

■肥後国人の激しい抵抗

 秀吉は成政が肥後に入部するに際して、①国人らに従来どおり知行を許すこと、②検地を3年間実施しないこと、を求めたという。理由は、国人らの激しい反抗を恐れるがゆえであった。肥後国を円滑に支配するには、国人を弾圧するのではなく、懐柔する必要があった。

 当然、国人らの一部は、成政の家臣団に組み込まれることが予想され、上からの厳しい抑え込みだけでは事態が進展し得なかったと想定された。秀吉は時間をかけて、徐々に支配を進めようとしたのである。

 ところが、早急な支配を望む成政は、秀吉の命に従わず検地を強行した。このことが原因で肥後国一揆が勃発したのである。

■成政と肥後国人の戦い

 最初に叛旗を翻したのは、隈部親永・親泰の父子であった。隈部氏は肥後の有力な国人で、もとは菊池氏の家臣だったが、のちに大友氏の配下に加わった。成政はただちに隈部父子を攻撃すべく、親永の籠もる隈府城(菊池城:熊本県菊池市)に軍勢を向わせた。

 やがて、隈府城が落ちると、親永は子の親泰の居城・城村城(熊本県山鹿市)へと逃れた。成政が城村城の攻略に手間取っている間、肥後国人は結束して、大規模な一揆が形成された。成政の居城・隈本城(熊本市)は一揆勢力に攻囲され、予想さえしなかった苦戦を強いられることになる。

■一揆の鎮圧と成政の切腹

 一揆が鎮静化したのは、小早川隆景、立花宗茂の援軍が駆けつけたからだった。成政一人では、如何ともし難かったのである。危機を脱した成政であったが、その不手際は秀吉に追及されることになった。これまで成政は、秀吉に対して何度も反抗の意を見せては許されたが、もはや秀吉の堪忍袋の緒が切れたということになろう。

 翌天正16年(1588)閏5月、秀吉から切腹を命じられた成政は、摂津尼崎(兵庫県尼崎市)で自刃した。成政の死後、肥後の北半分は加藤清正に、南半分(求麻郡除く)は小西行長に与えられたのである。