中津城(大分県中津市)の石垣を表現した砂糖菓子「石垣琥珀糖」のパッケージデザインが話題を呼んでいる。中津城は黒田官兵衛が築城し、細川忠興が改修を加えた。では、細川忠興とは、どういう人物だったのだろうか。

■細川忠興と千利休

 細川忠興は、永禄6年(1563)に山城国で誕生した。のちに、三斎と号した。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では大いに軍功を挙げ、東軍を勝利に導いた。その勇猛果敢さは、天下に轟いていたといえよう。

 父は、文化人として名高い細川幽斎(玄旨)である。それゆえ忠興は和歌、連歌、蹴鞠、有職故実を父から学び、豊かな教養を兼ね備えていた。なお、忠興の妻は、明智光秀の娘・ガラシャである。

 茶の湯は、父と千利休から手ほどきを受けた。忠興と利休との関係は『利休居士伝書』や『細川三斎茶湯之書』に見え、忠興は利休七哲(前田利家、蒲生氏郷、細川忠興、古田織部、牧村兵部、高山右近、芝山監物。なお、諸書によって異説あり)の一人に数えられる高弟である。

■切腹を命じられた利休

 天正19年(1591)2月、利休は豊臣秀吉の勘気に触れ、切腹を申し付けられた。その理由については、利休が安い茶器を高額で転売したなどの諸説があるが、根拠が十分でなく判然としない。

 それより以前、忠興は利休と書状を交わしていたことが知られており、忠興は利休と秀吉との関係を修復すべく、調停を行っていたといわれている。

 また、利休が蟄居を命じられた際、忠興は古田織部とともに淀の船着場まで見送った。しかし、そうした甲斐もなく、利休は自刃して果てたのである。

 利休は切腹におよび、2本の茶杓を自ら削り、細川忠興と古田織部に与えたという。忠興はその茶杓に「ゆがみ(命)」と名付け、織部は「泪(なみだ)」と命名した。「ゆがみ」という銘は、節の上が左に傾いているところから名付けられたという。

■利休没後の忠興

 利休の没後、忠興は阿弥陀堂釜、鉢開の楽焼茶碗、古雲鶴茶碗、石燈籠などの遺品を授けられた。それは、利休が特に忠興に目を掛けていたことを意味するものであろう。

 ゆえに忠興は、利休の茶の湯を後世に伝えるべく努力を怠らなかったという。なお、秀吉から忠興に与えられた名器としては、時雨の茶壺、有明茶入がある。

 のちに織部は利休を否定するが、忠興は利休の茶の湯を正しく引き継ごうとした。その理由は、忠興が利休の人間性に対して、心酔していたからだといわれている。忠興が利休に心酔していた点については、次の逸話がある。

■福島正則との問答

 あるとき福島正則は忠興に対して、なぜ武勇伝もないような利休をそこまで慕うのか、問うたことがある。忠興はこれに答え、利休は名誉のある人物であり、一度その茶をご覧になってはいかがかと勧めた。

 その後、正則は利休の茶に触れる機会があり、自身がいかなる強敵に向かっても恐れることはないが、利休に向かうと臆するところがあると述べた。つまり、正則は利休の迫力に圧倒されたのだろう(『細川忠興家譜』)。それは、忠興も同じ気持ちだったと考えられる。

 忠興の茶書としては、寛永18年(1641)極月(12月)吉日書写の奥書を持つ『細川三斎茶湯之書』が残されている。同書は忠興の茶法を論じたもので、茶の湯は師の茶を真似て、一心不乱に修練すれば、数寄者と評価されるようになると、独自の見解を提示している。

■忠興の最期

 元和6年(1620)、忠興は病を得て中津城(大分県中津城)に隠退し、三斎宗立と号した。なお、家督は子の忠利に譲った。

 寛永9年(1632)12月、子の忠利が肥後に転封されると、忠興は八代に隠居し、3万石を領した。亡くなったのは、正保2年(1645)12月2日のことである。墓は泰勝寺(熊本市)にある。