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【戦国こぼれ話】茶人の古田織部は、大坂の陣で徳川家康に味方したが、切腹を命じられた男だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
古田織部は茶人として名を馳せたが、徳川家康から自害を命じられて果てた。(写真:アフロ)

 話題沸騰の人気アニメ『やくならマグカップも』の舞台は、茶人の古田織部が織部焼を作らせたという多治見市である。では、漫画『へうげもの』でもおなじみの古田織部とは、どういう人物だったのだろうか。

■古田織部と千利休

 天文13年(1544)、古田織部は美濃国で誕生した(生年は諸説あり)。もとは、重然(しげなり)と名乗っていた。最初は美濃の土岐氏に仕官していたが、のちに織田信長、豊臣秀吉に仕えた。

 織部と利休との関係は、天正10年(1582)に確認できる。2年後の大坂城の茶会には、織部も代表的な数寄者とともに参加した。こうして織部は、茶人として世に出るようになった。

 ちなみに美濃の織部焼は、織部の指導により創始されたという。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、徳川家康の東軍に属して戦い、1万石を与えられた。

 以後、利休が秀吉から自刃を申し付けられるまで、2人の交流は続いた。その2人の間には、いくつかの逸話が残されている。

■利休との逸話など

 ある日、利休は弟子たちに対し、「瀬田(滋賀県大津市)の唐橋の擬宝珠(ぎぼし)のなかにすばらしいものが2つあるが、知っている者がいるか?」と尋ねた。

 すると織部は席を立って外に出ると、夕方になって帰ってきた。織部は馬を飛ばして現地へ行き、2つの擬宝珠を確認し、利休に報告したのである。場にいた一同は、織部の執着心に感心したと伝わる。

 織部の活躍度が増すのは、利休の没後だった。慶長3年(1598)8月に秀吉が亡くなった際、その遺品の一部は御伽衆に分配され、織部はその22人のなかに含まれていた(『甫庵太閤記』)。秀吉の没後、織部は家督などを子の重広に譲り、伏見屋敷で茶の湯に専念したのである。

■織部の名声

 織部の名声は広まり、慶長4年(1599)には「織部ト云茶湯名人」と評価されている(『多聞院日記』)。慶長10年(1605)、織部は秀忠の茶の指南役を任されることとなった。その間、小堀遠州に茶の指導も行った。

 同15年(1610)、織部は「数寄者の随一」として、江戸で秀忠を指導した(『慶長見聞録案紙』)。やがて、織部は「数寄の宗匠」として(『駿府記』)、かつての利休のような地位を獲得する。こうして織部の名声は、天下に轟いたのである。

■織部の美意識

 織部の茶の湯は、利休の精神を受け継いでいたが、「作意」という一点では大きく異なっていた。利休は自然のなかに美を追求したが、織部は徹底した演出にこだわった。沓形の茶碗もそうであるし、明るく開放的な多窓式の茶室も、利休の質素なものとは対照的だった。

 織部は、師匠でもある利休の草庵の茶の湯や求道性を否定した。つまり、織部は利休と対照的に、新しい美を求める際、人工的な作意にこだわったのだ。

 ところが、利休の正統を自認する細川忠興は、織部の茶の湯は昔の下手より劣ると手厳しく非難した。その作意が否定されたのだ。

 また、『江岑夏書』という茶書では、利休七哲(前田利家、蒲生氏郷、細川忠興、古田織部、牧村兵部、高山右近、芝山監物。なお、諸書によって異説あり)のうち、織部を最下位に位置付け、しかも、わざわざ織部の茶がもっと良くなかったと注記しているほどだ。

■織部の最期

 慶長20年(1615)に大坂夏の陣が勃発すると、織部は豊臣方に通じた嫌疑を掛けられ、同年6月に伏見屋敷で切腹した。徳川方の武将で、切腹を命じられたのは、織部ただ一人である。

 切腹の際、織部は一切の弁解をしなかったと伝わっている。その後、子の重広も斬首されてしまい、古田家は断絶したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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