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【戦国こぼれ話】島津久保、島津家久の妻となった亀寿とは、どんな女性だったのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
種子島は火縄銃の別称。亀寿の母は、鉄炮伝来で有名な種子島時堯の娘だった。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 昨今では、女性が2度くらい結婚することは珍しくない(男性も同じ)。島津久保、島津家久の妻となった亀寿もその1人であるが、いったいどのような女性だったのだろうか。

■人質となった亀寿

 元亀2年(1571)、亀寿は薩摩国などの戦国大名・島津義久の三女として誕生した。母は、鉄炮伝来で有名な種子島時堯の娘である。

 島津義久・義弘兄弟は、九州南部で大きな勢力を誇っていた。ところが、天正14年(1586)から翌年にかけて、豊臣秀吉による島津征伐が敢行された。当初、島津氏は秀吉を侮っていたが、その猛攻に耐えきれず、あっという間に屈服した。

 敗北の結果、被害者の1人となったのが、娘の亀寿である。島津家は降伏に際して、義久の母と亀寿を人質として秀吉のもとに送ったのである。人質を送ったのは、島津氏が屈服した証でもあった。

 のちに義久もあとを追うように上洛するが、翌年8月に帰国を許されたのは義久だけだった。亀寿と離れることになった義久は、悲しみのあまりに「二世とは ちぎらぬものを 親と子の わかれむ袖の あはれをも知れ」という歌に詠んだ。

 義久はこの歌を細川幽斎(玄旨)に託し、それを耳にした秀吉は亀寿ともども帰国を許すことにした。義久には男子がなかったため、亀寿が跡取りを取ることの必要性を和歌に盛り込んだのである。それが功を奏したといえよう。

■2度も結婚した亀寿

 天正17年、亀寿が19才のときに、義久の弟・義弘の次男・久保と結婚した。しかし、文禄・慶長の役が2人の運命を引き裂いた。久保は朝鮮出兵に出陣したが、戦場での過酷な状況が災いし、文禄2年(1593)に現地で病没したのである。

 翌年、亀寿は久保の没後に島津家の家督を継いだ弟の家久と結婚することになった。この結婚は父・義久の意向とは関係なく、背後で秀吉が画策したものだったといわれている。まさしく政略結婚であった。

 その後、亀寿は他の戦国大名の妻女たちと同様に、大坂での人質生活を強いられた。亀寿の労苦に対しては、父の義久から薩摩国木野村に5000石、大隈国大根占村に2700石が与えられた。とはいえ、亀寿にとって、夫との別居生活はかなり堪えたに違いない。

■関ヶ原合戦後の亀寿

 慶長5年(1600)9月、西軍が関ヶ原合戦で敗北すると、西軍に属した島津義弘らは命からがら薩摩国に逃げ帰ってきた。結局、島津家は徳川家と和睦を結び、存続を許された。

 しかし、問題はこれだけに止まらなかった。慶長8年(1603)に江戸幕府が開幕すると、亀寿は江戸藩邸に住むことになり、藩主である夫の家久と別居することになった。このことが家久と亀寿の関係を悪化させたことは、容易に想像できよう。

 家久が側室との間に、たくさんの子供をもうけていたことも災いした。男女でそれぞれ16人というので、計32人もの子宝に恵まれたのだ。こうした一連の出来事は、島津家の家督継承にも大きな影響を及ぼした。

■父・義久の死

 慶長16年(1611)に父の義久が没すると、亀寿は事実上追放されるような形となり、大隅国分で隠居生活を送ることになった。しかし、島津家の財産処分権と家督決定権は、亀寿が掌握していた。

 当初、島津家の家督は甥の久信に譲られる予定だったが、亀寿はその決定を覆して父・義久の玄孫の光久を養子とし、後継者に指名した。それは、寛永元年(1624)のことだった。

 亀寿は島津家歴代の女性の中では、別格の扱いであったという。肖像画も西南戦争まで残っていた。しかし、晩年は争いごとも多く、決して幸福とは言えなかったのかもしれない。亀寿は、寛永7年(1630)に亡くなった。享年60。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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