【戦国こぼれ話】戦国の傾奇者・前田慶次とは、どんな男だったのだろうか。逸話の数々は本当なのか
私はパチンコをしないのだが、「花の慶次」という機種は大人気だという。パチンコ台の名称になった前田慶次は、傾奇者として一部の戦国ファンには知られているが、いったいどんな人物だったのだろうか。
■謎多き前田慶次
前田慶次といえば、小説やマンガなどですっかり有名になった人物である。その豪快あるいは奔放ともいえる生き方は、多くの戦国ファンを魅了した。しかし、この前田慶次という人物については、あまり詳しいことが知られていないのである。
生年は天文元年(1532)をはじめとして、いくつかの説がある。没年についても同様で、慶長10年(1605)以外にも、慶長17年(1612)とする説がある。つまり、慶次は生没年すら、満足にわかっていない人物なのだ。
慶次は最初に前田利家に仕えたが、天正18年(1590)に前田家を出奔した。慶長3年(1598)から数年間は、上杉景勝に仕官したといわれている。
慶次に関する史料としては、『前田慶次道中日記』という史料も残っているが、多くの逸話は『常山紀談』や『翁草』といった後世の書物に記されている。先に触れた小説やマンガなどは、そこに記されたエピソードを取り上げ、さらに脚色を加えたものなのである。
■前田利家との関係は?
ところで、この前田慶次であるが、「前田」という名字から前田利家と血縁関係にあると思っている方もいるのではないだろうか。実のところ、慶次は利家と全く血は繋がっていないのである。
慶次は、前田利久を養父としていた。利久は利家の兄であり、前田家の長男であった。利久は体が弱く、後継者がいなかったため、慶次を養子に迎えたという。したがって、利家から見れば、慶次は義理の甥にあたることになる。では、誰の実子だったのであろうか。
慶次の実父は、滝川一益の一族とされている。一般的に「慶次」と称されているが、近年では「利益」と呼ぶのが一般的だ。
「利益」と呼ばれるのは、滝川家の「益」と前田家の「利」を組み合わせたものと考えられている。ただ、残念ながら、慶次の実父について諸説があり、未だ確定していないのが実情である。
■たくさんの逸話
慶次には、数多くのユニークな逸話が残っている。慶次が上杉景勝に仕官する際、手土産に大根を3本持参した。そして、「大根は見かけが悪いものの、噛めば噛むほど味があるのは拙者も同じである」と景勝に言ったと伝っている。
慶次が会津に移った頃、ある男が傲慢な林泉寺の和尚を殴りたいと言ったことがあった。そこで、慶次は林泉寺の和尚に碁の勝負を挑み、勝った場合は負けた者を殴るという条件をつけた。2局目に慶次は和尚に勝ったので、その顔面を思いっきり殴りつけ、そのまま逃げたという。
また、慶次は前田利家から、たびたび態度の悪さを注意されていた。ある日、慶次は利家のもとを訪れ、改心する旨を告げた。そして、利家をもてなしたいので、自宅に来てほしいと申し入れた。
この言葉を聞いた利家は、慶次が心を入れ替えたと喜んだ。利家が慶次の家を訪ねると、まず風呂に入るよう勧められた。利家が勧められるまま風呂に入ると、それは水風呂だったといわれている。利家は怒り狂ったが、すでに慶次は愛馬の松風に乗って、逃げたあとだったという。
慶次が傾奇者として、多くの人を魅了したのは、上記の豪快なエピソードがあったからにほかならない。決して権力におもねることなく、自由奔放に生きたことに多くの人が共感したのである。
■実は怪しい逸話の数々
ほかにも慶次にまつわる逸話はたくさんあるが、それらは後世の編纂物におもしろおかしく書かれたもので、信憑性に欠けるといわれている。信用できないとはっきり言っておきたい。
ところで、慶次は文芸に通じており、和歌の名手である細川幽斎とも交流を持っていた。また、直江兼続とともに、中国の史書『史記』に注釈を入れたともいう。少なくとも風流人であったことはたしかである。こういう落差も、慶次の人気を引き立てたのかもしれない。