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【戦国こぼれ話】大内義隆の死後、大内氏はいかなる過程を経て完全に滅亡したのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
中国地方に覇を唱えた大内義隆は、家臣の陶晴賢にあっけなく討ち取られた。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 本年3月、山口市の吉敷地域文化振興協議会は、大内氏が整備した「肥中街道」に石柱16本を設置した。大内氏と言えば、義隆が陶晴賢に討たれたが、その後どのような過程で滅亡したのか再確認することにしたい。

■大内氏の家督を継いだ大内義長

 天文20年(1551)の大寧寺の変で、陶晴賢は大内義隆を死に追い込み、大内氏に取って代わる存在となった。しかし、晴賢による支配は、困難が予想された。

 しょせん陶氏は大内氏の家臣筋の人間にほかならず、大内氏の代わりに支配を行うことができない。そこで、義隆の跡に大内氏の家督を継いだのが義長(初名は晴英。以下、義長で統一)である。

 実のところ、義長は豊後・大友義鑑の次男だった。義隆に実子がなかったために、天文12年(1543)に養子として大内氏に迎えられた。しかし、その2年後に義隆に実子(義尊)が誕生すると、義長は不要になったので、養子縁組を解消されたのである。

 天文20年(1551)、晴賢がクーデター(大寧寺の変)を画策すると、義長を大内家の家督に据えることを検討した。大友宗麟は反対の意を示すが、最終的に義長自身が望んだといわれている。

 晴賢のクーデターが成功裏に終わると、約束どおり義長は大内氏の家督を継いだ。そして、当時「晴英」と名乗っていた義長は、「隆房」と名乗っていた陶晴賢に「晴」字を与えて「晴賢」に改名させたのである。

■義長の最期

 天文22年(1553)、義長はときの将軍・義輝から「義」字を与えられ、「晴英」から義長に改名した。しかし、義長は晴賢の傀儡であることには変わりはなく、虚しい日々を過ごすことになる。

 その晴賢が弘治元年(1555)に厳島の戦いにおいて、毛利元就に敗れて自害すると、大内氏の威勢は一気に衰えた。義長は、たちまち窮地に陥ったのである。

 その2年後に毛利氏が山口に攻め込むと、義長は長門に逃走した。義長は重臣・内藤隆世の居城・且山城に拠っていたが、追い詰められ長福寺(現在の功山寺)で自刃して果てた。まだ26歳という若さだった。

 義長の没後、周防・長門は毛利氏の支配下に収まった。しかし、両国をめぐる動きは、これで終わったわけではない。まだまだ続いたのだ。

■家督を継いだ大内輝弘

 大友宗麟の客将の中には、大内輝弘なる人物がいた。輝弘は、大内義興の弟・高治の子だったという。かつて高治は宗麟の祖父・親治の誘いに乗って、義興に謀反を起こした。

 しかし、謀反は失敗に終わり、豊後に亡命していたのである。とはいえ、輝弘の野心は衰えず、虎視眈々と復活のチャンスをうかがっていた。

 一方、大内氏を滅亡に追い込んだ毛利氏は、中国東部、四国北部、九州北部へと兵を送った。永禄9年(1566)には、長年の宿敵・尼子氏を滅亡に追い込んだ。

 その2年後には河野氏を叩くため、毛利氏は伊予へも出兵した。大友氏領国の豊前・筑前への出兵を開始するのは、永禄12年(1569)5月のことである。

■周防に渡海した輝弘

 大友氏は毛利氏を牽制するため、尼子氏の遺臣や備前・浦上氏と協力関係を結び、挟撃する体制を取った。同時に、周防・長門の領国には大内氏を慕う遺臣が存在したため、大内氏の子孫である輝弘を送り込むことを大友氏は考えた。輝弘が周防に渡海したのは、永禄12年(1569)10月のことである。

 周防に上陸した輝弘は、まず毛利氏家臣の市川経好が籠もる高嶺城を攻撃した。しかし、城は経好の妻の奮闘により容易に落城せず、戦いは膠着状態に入った。しかも毛利氏の援軍が到着すると、輝弘は苦戦し、大内氏遺臣の多くが離れていった。

 毛利氏の軍勢は着実に輝弘を追い詰め、大軍でもって圧倒した。逃亡を続ける輝弘は四方を囲まれ、退路を絶たれたのである。そして、ついに輝弘は、富野の茶臼山で自刃し、悲願を叶えることができなかった。こうして、大内氏は完全に滅亡したのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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