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【戦国こぼれ話】和歌山県の「和歌山」は、豊臣秀吉の弟・秀長が命名したものだった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
和歌山城の「和歌山」は、羽柴(豊臣)秀長が命名したといわれている。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 大阪でコロナが急拡大。隣県の和歌山県は、飲食店に時短要請をしたという。ところで、「和歌山」とは実に美しい地名で、豊臣秀吉の弟・秀長が命名したといわれている。以下、検証してみよう。

■古代にさかのぼる「和歌山」

 県名や県庁所在地の市の名称となっている「和歌山」。この名称は、いつ誰によってつけられたのか考えることにしよう。

 そもそも「和歌山」の淵源をたどると、古代にさかのぼる。奈良時代以前、現在の和歌浦は「弱浜」といわれており、「わかのはま」あるいは「よわはま」と呼ばれていた。

 724年に「弱浜」を訪れた聖武天皇は、「明光浦(あかのうら)」と呼ぶこととし、詔を出した。また、『万葉集』に収録された歌人の山部赤人の歌では、「若の浦」と詠まれている。そして、平安時代以降の和歌でも、「和歌の浦」と詠まれるようになった。

 「和歌山」のルーツには、和歌浦が関係しているようだ。

■秀吉の紀州攻め

 天正13年(1585)4月、紀州攻めを圧倒的な勝利のうちに終えた羽柴(豊臣)秀吉は、紀伊国の支配を弟の秀長に任せた。

 通説によると、このときに「和歌山」の名称が用いられたといわれている。『紀伊続風土記』という史料には、次のとおり記されている(要約)。

天正13年、秀吉が根来寺を滅ぼし、太田城を降参に追い込み、紀州を統一して秀長に与えた。秀長はこの地(和歌山城)に縄張りを命じ、藤堂高虎らを普請奉行にして本丸・二の丸を年内に築いた。秀長は大和国郡山を居城としていたが、桑山重晴を城代とし、自らは天正14年から(和歌山城に)在城して「若山の城」と称した。

 この史料によると、紀州攻めの翌天正14年(1586)になって、秀長が「若山」と称したと書かれている。当初は「和歌山」ではなく、「若山」だったようだ。「和歌」の字が異なっていることに気付く。

■「岡山」だった?

 実は、先に示した『紀伊続風土記』の続きには、次に示す興味深い記述がある。

この地(和歌山城)は吹上浜の東に峙つをもって「吹上峰」と号し、また岡山の北首にあったので「岡山」の名があった。「岡山」の南和歌浦の諸山とつないで、「和歌」の名がもっとも四方に高いことから、「若山」と名付けたという。

 和歌山城のあった場所は違う地名(「吹上峰」「岡山」)だったが、「岡山」の南に位置する「和歌浦」の「和歌」の部分を採用して、当初は「若山」と称したと記す。

 『武徳編年集成』には、天正13年(1585)に秀長が「岡山」の地に城を築き、のちに「和歌山」の城と名付けたと書かれてる。しかし、これ以外にも諸説がある。『畠山記』によると、すでに15世紀半ば頃から「和歌山」の地名が見えている。

 ただし、『紀伊続風土記』などは後世に編纂されたものなので、史料的な質が劣ることに注意したい。

 ちなみに天正13年(1585)に推定される7月2日付の秀吉の書状によると(「三好文書」)、「紀州和歌山に弟の秀長を配置し」と記されている。いずれにしても、この頃に「和歌山」の名称が用いられたのは、たしかなようである。

■「和歌山」か「若山」か

 しかし、江戸時代を通じて、「和歌山」と「若山」は混用されたようだ。前近代は大らかな時代だったので、「わかやま」という読みが同じであれば、漢字の表記に厳密さを欠いていたことがあった。明治時代になって「和歌山県」が誕生すると、「和歌山」がしっかり定着したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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