【戦国こぼれ話】関ヶ原合戦後に吹き荒れた改易の嵐。徳川家康のリストラ構想が意味するものとは

伊賀上野城は、もともと筒井定次の居城だったが、藤堂高虎の印象が強い。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 コロナ禍で仕事を失った人が多いが、政府には再就職の道筋をつけてほしいものだ。関ヶ原合戦後、徳川家康は多くの大名を改易とした。家康には、どのような構想があったのだろうか。

■大名配置の変化

 慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦後、徳川家康の政権構想が進展する中で、大名配置も少しずつ姿を変えた。大名配置の変化は、豊臣家への脅威になった。関ヶ原合戦後、豊臣系の諸大名は西国方面に多く配置され、徳川家の家門・譜代は逆に東国方面に配置された。

 ところが、こうした方針は豊臣系の諸大名を改易し、代わりに家門・譜代を配置することによって、大きく変化を遂げたのである。

■筒井定次の改易

 慶長13年(1608)7月、伊賀上野城主の筒井定次が改易された(『当代記』など)。理由は、家臣の中坊秀祐が定次の不行状を告発することにより表面化した、家中不和によるものである。

 定次は従兄の順慶の養子となり、その死後に家督を継承した。秀吉から伊賀上野への転封を命じられたのは、天正13年(1585)のことである。定次は上野台地に城郭を築くと、近辺の城下町化を推進し、河川を利用した流通網を整備した。そして、京都、大坂などの主要都市と結び、伊賀の経済発展を進めたといわれている。

 定次の代わりに伊賀上野を与えられたのは、それまで伊予国半国を治めていた藤堂高虎だった。もともと高虎自身は豊臣恩顧の大名であったが、家康に急接近することにより、側近大名といえる立場を築いた。高虎が妻子を江戸に預け、江戸城普請を積極的に推進したことはよく知られている。

 伊賀上野は東国と西国を結ぶ地点にあり、京都・大坂にも近い所に位置し、重要な拠点として認識されていた。家康がその地を高虎に与えたことは、対豊臣家を意識したものであると考えてよい。

 高虎が築城の手腕に優れていたことはよく知られているが、以後、諸大名の改易に伴う御手伝普請に積極的に関わった。同時に、高虎は家康の期待に応えるかのごとく、上野城の改修と城下町移転を行った。慶長16年(1611)のことである。この改修は、今後に予想される合戦に備えたものであった。

 つまり、筒井定次の改易と藤堂高虎の入封は、来るべき豊臣方との戦いを念頭に置いたものとみなすべきであろう。家康はそのために、腹心である高虎をあえて配置したのである。

■前田茂勝の改易

 慶長13年(1608)5月、丹波八上城主の前田茂勝が改易処分を受けた(『当代記』など)。茂勝は、京都所司代を務めた前田玄以の子であった。キリシタンとしても知られている。

 玄以は関ヶ原合戦で西軍に属していたが、戦闘に加わらなかったので処分されず、遺領は茂勝に継承された。茂勝が改易の処分を受けた理由は、重臣である池尾氏を殺害するなど、当主としてふさわしくない行為があったからであるという。茂勝の日常的な行為にも、不可解なところがあった。

 なお、筒井定次もキリシタンだったといわれているので、キリシタン禁令も影響していると考えられているが、口実として作用していたことは否めない。

 茂勝の代わりに八上城城主となったのは、常陸国笠間の松平康重である。康重は、家康の実子であるといわれた人物である。また、慶長7年(1602)における佐竹氏の秋田転封に際しては水戸城を守り、佐竹氏旧臣の反乱を鎮圧したことで知られる。

 実は、それ以前から康重の軍功は目覚しく、西国方面を抑えるには最適な人物だった。こうした大名配置は、高虎の伊賀入封と同じく、西国方面つまり大坂の秀頼を意識したものである。その点で、康重はうってつけの人物であったといえる。

 最初、康重は八上城に入ったが、立地条件が悪いと判断すると、篠山へ移転することを決定した。この判断は、京都・大坂方面を強く意識したものだろう。八上城は山城であり、さまざまな面で不便であると感じられていたからである。

 篠山城の築城は御手伝普請として行われ、総奉行には池田輝政が、御縄張奉行には藤堂高虎が任命された。そして、普請役は西国13ヶ国20名の大名に賦課された。同時に篠山城下町の整備も進められたので、経済圏の確立も意図されていたようだ。

 このように家康は、改易という手段を用いることによって、主要な地域に腹心の大名を配置することに成功した。改易の行われた前年、家康は駿府城を改修し、いわゆる大御所政治を展開している。既述した一連の改易は、全国支配へ向けた本格的な動きであるが、まだほんの序章に過ぎなかったのである。