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【戦国こぼれ話】あまりにややこしすぎる!戦国大名は、なぜ頻繁に名前を変えたのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
上杉謙信もたびたび改名したことで知られる大名の1人。(提供:アフロ)

 タレントの小倉優香さんが「小倉ゆうか」に改名したことが話題となっている。しかし、戦国大名の場合は、1回どころか複数回にわたって改名する例もあった。なぜ戦国大名は、頻繁に名前を変えたのだろうか。

■たびたび改名した立花宗茂

 立花宗茂の父は、大友氏の家臣・吉弘鎮理だった。鎮理は高橋氏の名跡を継ぎ、高橋鎮種(のちの紹運)と名乗り、宗茂の名字も高橋に変わった。天正9年(1581)、宗茂は大友氏の家臣・戸次鑑種(のちの立花道雪)の娘・誾千代と結婚して婿入りし、戸次を名字とした。翌年、宗茂は大友氏の家臣・立花氏の名跡を継ぐ。

 宗茂は統虎を振り出しにして、何度も名前を変えた。統虎→鎮虎→宗虎→正成→親成→尚政→政高→俊正→経正→信正→宗茂→立斎の順番だ。文禄の3年間には、3度も改名したが、その理由は不明である。なかには、改名の時期がわからないものもある。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、西軍に属して敗北した宗茂は、以降もたびたび改名する。

 最終的に宗茂という名に落ち着いたのは、慶長15年(1610)のときで、寛永15年(1638)に出家して立斎と号した。

■宗教の影響を受けた大友義鎮の名前

 キリシタン大名として知られる大友義鎮の「義」の字は、父の義鑑と同じく大友氏代々の通字である。永禄6年(1562)、門司城(福岡県北九州市門司区)の戦いで、義鎮は毛利氏に敗北した。その責任を取る意味で、義鎮は出家して「休庵宗麟」と号した。もともと義鎮は、臨済宗を信仰していたのだ。

 天文20年(1551)、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが布教のために豊後を訪ねると、宗麟はキリスト教に強い関心を示した。宗麟が洗礼を受けたのは27年後の天正6年(1578)のことで、宣教師のフランシスコ・カブラルから「ドン・フランシスコ」という洗礼名を与えられた。

 以後、宗麟は書状などで、「府蘭」という書名を用いた。「三非斎」「宗滴」などは別号だ。このように宗麟は宗教上の理由から、和洋両方の名前を用いていた。

■政治的な立場で改名した上杉謙信

 長尾為景の次男として誕生した上杉謙信は、天文12年(1543)に元服して「景虎」と名乗った。「景」の字は、長尾氏の通字である。

 永禄4年(1561)閏3月、謙信は上杉憲政の要請もあり、山内上杉家の家督と関東管領職を継承し、「上杉政虎」と名を改めた。「政」の字は、憲政から与えられたものだ。ところが、同年12月、室町幕府の将軍・足利義輝から「輝」の字を与えられ、ほどなく「輝虎」と改名した。

 永禄13年(1570)4月、実子のなかった謙信は、北条氏康の子を養子に迎え、「景虎」と名乗らせた。そして、自身も同年12月に「不識庵謙信」と号した。このように謙信は、ときの政治権力との関わりから改名した好例である。

■勢力争いで名前を変えた有馬晴信

 有馬晴信は、同じ肥前の武将・龍造寺隆信の攻勢にさらされ、やむなく豊後の大友義鎮(宗麟)を頼った。そのような事情から、天正7年(1579)頃に元服した際、義鎮の「鎮」の字を与えられて「鎮純」と名乗り、さらに翌年には「鎮貴」と改名した。

 天正8年(1580)、晴信はキリスト教に入信し、イエズス会の巡察使・ヴァリニャーノから「ドン・プロタジオ」という洗礼名を授けられた。改名した理由は、龍造寺氏に対抗すべく、イエズス会から武器、食糧、弾薬の提供を受けていたと考えられるので、実利的な理由によって、キリスト教に入信した可能性がある。

 天正12年(1584)、晴信は島津義久と協力して龍造寺氏を滅ぼすと、翌年には義久から偏諱を与えられ、再び「久賢」と改名した。大友氏の名前を捨てたので、島津氏に従うことを意味している。このように有馬晴信には、弱小大名の悲哀をみることができ、それが名前にも反映されたことがわかる。

■下剋上と連動して名を変えた斎藤道三

 斎藤道三は松波基宗の子として誕生し、幼名は峰丸という。11歳のときに出家し、法蓮坊と号したが、のちに還俗して庄五郎と名乗った。その後、道三は油屋の娘を妻に迎え、山崎屋を屋号とした。ところが、行商の途中で美濃土岐氏の家臣・長井氏の知遇を得て、仕えることになった。

 道三は長井長弘の家臣・西村氏の名跡を継いで、西村正利と名乗った。やがて、美濃国守護の土岐頼芸の寵を受けた道三は、土岐家の家督争いで政頼を追放し、頼芸を当主の座につけることに貢献した。その後、道三は主君の長弘の排除を画策し、享禄3年(1530)に殺害した。道三はその名跡を継いで、長井規秀と名乗ったのだ。

 天文7年(1538)に守護代・斎藤利良が亡くなると、道三はその家督を継いで斎藤利政と名乗った。出家して道三と号したのは、天文17年(1548)のことだ。道三の改名は、下剋上の経過と連動していたのである。

 このように、戦国大名が改名した背景には、一言ではいえない、さまざまな事情があったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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