Yahoo!ニュース

【戦国こぼれ話】豊臣秀吉は驚異的なスピードで美濃大垣から賤ヶ岳へ戻ったのか。美濃大返しの真相

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
賤ヶ岳登山道。豊臣秀吉は、賤ヶ岳で柴田勝家と雌雄を決した。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 兵庫県たつの市の旧家で、豊臣秀吉の書状が2通見つかった。大発見だ!ところで秀吉といえば、中国大返しによって、明智光秀を討ったことで有名だ。今回は、秀吉の美濃大返しの真偽を検証しよう。

■豊臣秀吉と柴田勝家の決裂

 天正10年(1582)6月の本能寺の変で織田信長が横死し、信長を討った明智光秀は山崎で討伐された。その翌天正11年(1583)、羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家が決裂し、覇権を争った。この戦いこそが有名な賤ヶ岳(滋賀県長浜市)の戦いで、美濃大返しとはその最中の秀吉の作戦だ。

 両軍の軍勢は、秀吉軍6万、勝家軍4万だったといわれている。共に長期戦の構えで、約1ヵ月近く膠着状態が続いた。しかし、同年4月20日、秀吉が美濃に侵攻すると、賤ヶ岳付近の秀吉軍が手薄になった。これを知った佐久間盛政が勝家に進言し、軍勢8千を率いて中央を突破する攻撃に出た。

■美濃大返しの決行

 このとき、秀吉は大垣(岐阜県大垣市)で昼食を摂っていたが、盛政が賤ヶ岳に出撃したとの報告を受けると、即座に勝利を確信したという。報告を受けた秀吉は、北国脇往還沿いの村々に先遣隊を派遣し、松明と握り飯の準備を命令した。

 4月20日の14時頃、秀吉は約1万5千の軍勢を率いて大垣を出発すると、木之本(滋賀県長浜市)までの約52キロメートルの距離をわずか5時間で移動したという。路次は平地ばかりでなく、丘陵地帯も含まれていたので、驚異的なスピードである。松明と握り飯の準備を命令したのは、路次を明るくし、行軍しながら食糧を補給するためであった。

 結果、秀吉は賤ヶ岳の戦いで勝利し、最終的には越前北庄(福井市)で柴田勝家を討伐することに成功した。賤ヶ岳の戦いは、秀吉の運命を切り開いた一戦だったのである。

 問題になるのは、わずか5時間で52キロメートルも移動することが可能なのかということである。あまりに驚異的なスピードだ。しかも舗装された道ではなく、アップダウンもそれなりにあった道である。次に、その点を考えてみよう。

■美濃大返しは可能だったのか

 現在のフルマラソン(42.195キロメートル)の世界記録(男子)は、2時間1分39秒である(2018年9月16日)。この記録を見る限り、「可能ではないか」と考える人がいるかもしれない。ただし、世界記録を持つ職業ランナーは、日頃から専門的なトレーニングを行い、レース直前には細心の注意を払って調整を行う。普段の食事の管理などを含め、コンディションの整え方を徹底していた。

 マラソンランナーは、専用のユニフォームやシューズに身を包んでいる。マラソンのコースも多少のアップダウンがあるとはいえ、平坦な部分が多いはずだ。道も舗装されており、凹凸がないだろう。つまり、現代のマラソンランナーと美濃大返しの場合では、走る条件が圧倒的に異なっていた。

 当時の状況を考えると、大垣から賤ヶ岳までのコースは起伏に富んでおり、道も細く路面も荒れていたことであろう。数万の軍勢が行軍すれば、押し合い圧し合いだったに違いない。仮に、将兵が軽装だったとしても、武具も携行せねばならず、履物は粗末なものだったに違いない。あまりに条件が悪い。

■不可能だった美濃大返し

 以上のような事情を考慮すると、わずか5時間で約50キロメートルを走破するのは不可能であるといわざるを得ない。いくら道沿いに松明や食糧を用意していても、走るスピードは上がらなかったはずだ。敵の襲撃にも注意をしなくてはならず、ただひたすら走ればよいというものではない。

 近代の軍隊の行軍距離は、1時間で約12キロメートルだった。大部隊では、1日で24キロメートルが限界だった。あまりに疲労が蓄積すると、実際の戦闘で支障が生じたり、行軍中に脱落者が出ることも考えられる。しかし、これはあくまで訓練を受けた軍人の話であり、それを戦国時代に適用するのは酷だろう。

 戦国時代の兵卒は、在地から徴集された土豪や百姓が主体だった。整然とした近代の軍隊とは、質的に違っていたと考えるべきである。現代人よりは体力があったに違いないが、それでも美濃大返しは不可能であったといわざるを得ない。

 結論をいえば、美濃大返しは史実として認めがたく、単なる秀吉伝説の一つにすぎない。強いて言うならば、馬に乗った小部隊が先遣隊として先に賤ヶ岳に到着し、周囲の諸勢力に糾合を呼びかけ、それなりの勢力に膨らんだのかもしれない。その後、続々と後続部隊が着いたのではないか。

 しかし、それは史料的な裏付けがなく、あくまで私の想像にしか過ぎない。ごく常識的に考えても、物理的に不可能な美濃大返しを信じることは危険である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

渡邊大門の最近の記事