Yahoo!ニュース

【戦国こぼれ話】後世になって貶められた石田三成。あの陰謀説は嘘、それとも本当だったのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:アフロ)

 ヨルダン政府は、国を不安定化させた元皇太子を非難した。しかし、元皇太子は、陰謀などには関与していないと否定した。ところで、陰謀といえば石田三成にもいろいろな噂があるが、それは事実なのだろうか。

■朝鮮半島における加藤光泰との確執

 文禄元年(1592)に文禄の役が起こると、加藤光泰は朝鮮に出兵したが、その際に石田三成と確執が生じたといわれている。翌年、光泰は日本へ帰国することになり、朝鮮の西生浦で宮部長房から饗応を受けた。

 その直後、光泰は急病により、そのまま亡くなった。これは、三成の意を受けた宮部長房による毒殺であるといわれ、支持する研究者も存在する。

 三成の陰謀説については、いくつか疑問が提示されている。異国の地である朝鮮では、食事や水が合わず、病に伏せる武将も少なくなく、なかには病没する者もあった。光泰は戦闘で負傷しており、その傷がもとで亡くなったという説もある。

 三成陰謀説が広まった背景には、光泰死後の措置にもあった。後継者の作十郎(貞泰)は遺領相続を認められず、美濃黒野城へ4万石の減封となる。こうした手厳しい措置は、背後に三成の陰謀があったのではないかと考えられている。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、貞泰は西軍から東軍に転じており、その理由は三成への遺恨があったのではないかとの指摘もあるが、三成陰謀説は確固たる証拠がない。

■蒲生氏郷の毒殺

 文禄元年(1592)の朝鮮出兵には蒲生氏郷も出陣したが、慣れない土地でもあり、陣中で病に陥った氏郷は、翌年11月に会津に戻った。しかし、氏郷の病状は悪化する一途であり、快方に向かわなかった。

 氏郷は京都滞在中に医師の曲直瀬玄朔の治療を受けるなどしたが、文禄4年(1595)2月7日に京都伏見の自邸で病没した。家督は、子の秀行が継承した。

 毒殺説が記されているのは、『氏郷記』なる氏郷の一代記で、文禄4年(1595)に三成が豊臣秀吉と謀って、氏郷に毒を盛ったと書かれている。ところが、当時、三成は朝鮮にいたので、氏郷に毒を盛れるわけがなく、現在では否定されている。

 なお、三成による毒殺説は、『石田軍記』、『蒲生盛衰記』などにも記されている(直江兼続との謀議説もある)。

 ところで、氏郷の死因に関しては、曲直瀬玄朔の残した『医学天正記』に書かれている。氏郷は朝鮮出陣前の名護屋城で発症しており、診断の結果からして、直腸癌、肝臓癌あるいは肝硬変などの症状があったとされている。

 このように比較的信頼のおける史料に病状が記されており、その死因も推測できるので、三成による毒殺は考えにくい。三成の陰謀ではないだろう。

■加藤清正との確執

 慶長4年(1599)閏3月に前田利家が病没すると、直後に清正ら七将たちは石田三成を訴訟した(石田三成訴訟事件)。しかし、三成は京都伏見の自邸に逃れ、事なきを得た(伏見の家康邸に逃れたのは誤り)。事件の背景には、清正ら七将が朝鮮出兵の際、三成に強い怒りを抱いたという原因があった。

 朝鮮出兵中の慶長元年(1596)、清正召還事件が起こった。三成は小西行長と謀り、(1)清正が行長を堺の町人であると罵ったこと、(2)清正が無断で豊臣姓を名乗ったこと、(3)清正の部下が明の正使の財貨を盗み逃亡したこと、を秀吉に訴えたという。これにより清正は、秀吉から帰国を命じられ、伏見屋敷で蟄居することになった。

 同年閏7月、慶長大地震が起こると、清正は伏見城に駆け付け、犬猿の仲の三成の登城を阻んだ。結局、前田利家、徳川家康の仲介もあり、清正は許された。しかし、清正は一連の出来事について、すべて三成に原因があると考え深く恨んだという。

 また、慶長2年(1597)における朝鮮での戦いでは、目付役の福原直高らが蜂須賀家政、黒田長政の行動を悪く三成に報告したことから、清正の怒りはさらに増幅し、先述したとおり三成を訴訟することを決意したという。三成の陰謀というよりも、朝鮮半島における確執が両者の対立を招いたようだ。

■小早川秀秋を陥れたのか

 最後は、小早川秀秋である。慶長2年(1597)、秀秋は朝鮮の釜山へと渡海した。秀吉は帰国命令を出し、同年12月に秀秋は日本へと戻った。翌年3月、秀秋は秀吉の命により、筑前・筑後の二ヵ国を召し上げられ、越前北庄に転封を命じられた。

 この事件の背景には、三成の策謀があったという。『藩翰譜』などによると、三成は朝鮮における秀秋の失態を報告し、秀秋の領する筑前・筑後を欲したとある。果たして、これは事実なのか。

 同年5月、三成は家臣の大音新介に書状を送り(「宇津木文書」)、内々に筑前・筑後を与えられ、九州支配の一角を担う予定であったと知らせている。

 しかし、それでは佐和山を支配する後任もおらず、秀吉の身辺に仕えられないので、三成は両国の拝領を辞退し、佐和山に止まった。そして、秀秋が越前に行っている間、三成は代官として筑前を一時的に預かったのが真相のようだ。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、秀秋は西軍を裏切り、東軍に与した。その理由の一つとして、三成の讒言を挙げているものがある。しかし、三成の讒言については今や疑問視されているのが実情だ。

 三成が黒幕だったという説は質の低い史料に書かれたものがあるので、注意が必要である。後世の人が三成を貶めるため、創作した可能性がある。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

渡邊大門の最近の記事