昨今、過剰な業務による長時間労働は減りつつあるようだが、決してゼロにはなっていない。戦国時代においては、たった1日で城を作るという、過剰な業務があった。豊臣秀吉は、その無理難題をいかにして克服したのだろうか。

■墨俣一夜城とは

 豊臣秀吉の有名な逸話としては、墨俣一夜城(岐阜県大垣市)を築いた話がある。永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元に勝利した織田信長は、美濃齋藤氏の攻略に乗り出した。美濃の大名・斎藤龍興の拠点は、難攻不落の稲葉山城(岐阜城)だった。信長はこの城を落とすため、重臣らに交通の要衝である墨俣に出城を築くよう命じた。

 信長の命を受けて、墨俣城築城という難事業をやったのは、まだ新参者の木下藤吉郎(豊臣秀吉)である。永禄9年(1566)、秀吉は自ら名乗りを上げると、美濃の勢力を翻弄しながら、約束どおりわずか一夜で城を完成させた。しかもそれは、天守を備えた立派なものだったという。秀吉はこの功によって、信長から金・銀などの褒美を授けられた。

 この話は、江戸時代後期に成立した、『絵本太閤記』に記されたものだ。ただ、『絵本太閤記』は脚色が多いゆえに、あまり信が置けない史料でもある。近年では、尾張の土豪・前野家の動向を記した『武功夜話』という史料が紹介され、墨俣一夜城に関する詳細な記録を確認できる。しかし、『武功夜話』自体が創作された史料である可能性が高く、墨俣一夜城を否定する見解が多数を占めている。

 編纂物の中でも『甫庵太閤記』には、美濃の新城に入ったとの記述があるものの、特に一夜で城を築いたとの記述を確認できない。むろん、たしかな史料でも裏付けられない。秀吉が信長の美濃侵攻に従ったことはあったとしても、墨俣一夜城に関しては再度見直す必要がある。急いで墨俣に砦を築いたかもしれないが、さほど規模の大きなものではなかったのではないだろうか。

 秀吉は後世の編纂物によって、軍事の天才に仕立て上げられた感がある。当初、小さな事実に過ぎなかったことが、徐々に脚色されたのであろう。秀吉が軍事に長けていたことは事実かもしれないが、あまりに荒唐無稽で信用できないのだ。墨俣一夜城も史実とは認めがたい。

■石垣山一夜城とは

 豊臣秀吉の築城にまつわる逸話については、石垣山一夜城の築城も非常に有名である。

 天正18年(1590)、秀吉は後北条氏を討伐すべく、水陸両面から約15万の大軍を率いて小田原城(神奈川県小田原市)を包囲した。そして、秀吉率いる軍勢は、石垣山(同上)に着陣したのである。石垣山は「笠懸山」と称されていたが、秀吉が本陣として総石垣の城を築城したことにちなんで「石垣山」と呼ばれるようになったと伝える。

 石垣山一夜城は一夜で築城されたという逸話があり、ハリボテの城を豪華に見せかけたといわれている。秀吉ならではの機転といえよう。では、石垣山一夜城は、本当にハリボテの城だったのであろうか。

 石垣山城は、「石垣山一夜城」あるいは「太閤一夜城」と呼ばれていた。それには大きな理由があり、次のように説明されている。秀吉は築城に際し、山頂の林に塀や櫓の骨組みを一気に造った。そして、壁に白紙を張ってあたかも白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採したのである。小田原城中の将兵はそれを見て、驚愕し志気を喪失したと伝わっている。

 一連の話は、史実なのであろうか。実際は作業員がのべ4万人も動員され、工事は天正18年(1590)4月から6月まで約80日もの日数が費やされたという。人海戦術によって、石垣山一夜城は完成した。つまり、ハリボテの状態は見せかけであり、実は背後で着々と工事を進めていたのだ。

 秀吉は、この城に側室の淀殿や茶人の千利休、また能役者を呼び茶会などを開いた。そして、ときには天皇の勅使を迎えたこともあった。相当な規模の城郭だったのである。

 石垣山一夜城は、関東で最初に造られた総石垣の城である。関東の城郭は石垣ではなく、土が盛られているのが大半である。石積みは近江の穴太衆による野面積みといい、長期戦に備えた本格的な総構えであった。度重なる地震にも耐えてきたが、関東大震災ではかなりの石垣が崩落したという。

 現在、石垣山一夜城は公園として整備され、国立公園区域および国指定史跡に指定されている。実際には即席の城ではなく、本格的な中世城郭だったのである。

 つまり、秀吉は軍事の天才と称えられ、さまざまな築城に関するエピソードが残っているが、それは信じるに足りないものばかりなのである。