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【戦国こぼれ話】織田信長と今川義元が雌雄を決した桶狭間の戦い。徳川家康はどう行動したのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
桶狭間古戦場(愛知県豊明市)。この戦では、徳川家康の運命が開けた。(写真:KEI108/イメージマート)

 3月12日に映画「ブレイブ ―群青戦記―」が公開されるが、織田信長だけではなく、徳川家康(当時は松平元康)の役回りも非常に重要なようだ。特に、桶狭間の戦いにおいて、家康はどのように行動したのか、考えることにしよう。

■出陣した今川義元

 永禄3年(1560)は、松平元康(徳川家康/以下、元康で統一)にとって重要な画期となった。桶狭間の戦いで、今川義元が戦死したからである。

 義元が西進した理由については、(1)上洛説、(2)三河支配安定化説、(3)尾張制圧説、(4)東海地方制圧説などがある。近年では、織田氏との長年にわたる抗争に蹴りを付けるため、尾張に出陣したという(3)説が有力視されている。

 同年5月12日、義元は自ら大軍勢を率い、駿府を出発した。東海道を西に向かい、尾張を目指したのである。

 5月18日には、尾張と三河の国境付近にある沓掛城(愛知県豊明市)に入城した。このとき、義元から先鋒を命じられたのが、元康なのである。

 その緒戦、大高城(名古屋市緑区)を守る鵜殿長照は、義元に城中の兵糧が不足していることを訴えた。

 高城は織田方にすっかり包囲されているという、極めて厳しい状況にあった。報告を受けた義元は、ただちに兵糧の補給を元康に命令した。

 命令を受けた元康は、織田方に包囲された大高城に兵糧を運び込むのは極めて困難であると思案した。

 しかし、5月18日、元康は織田方の鷲津砦と丸根砦(以上、名古屋市緑区)の間を縫うように突撃し、城中に小荷駄隊を送り込むことに成功したのである。こうして元康は、大高城に留まった。

■動き出した織田信長

 こうした状況下、織田方では軍議を催し、積極的に打って出るか、清洲城(愛知県清須市)に籠城すべきか、議論を戦わせていたが、明確な結論は出なかった。

 5月19日未明、今川方の元康と朝比奈泰朝は、織田方の丸根砦、鷲津砦に攻め込んだ。むろんこの一報は、信長のもとにももたらされた。

 すると、それまで一切動じなかった信長は、突如として幸若舞「敦盛」を舞うと、出陣の準備を整えた。そして、5月19日早朝、信長は小姓5騎のみを引き連れ、居城の清洲城をあとにした。

 やがて、軍勢を熱田神宮(名古屋市熱田区)に集結させると、今川氏との対決に向けて戦勝祈願を行ったのである。

■今川方の動き

 今川方の動きは、どうだったのだろうか。大高城にいた元康は、丸根砦に攻撃を仕掛けた。丸根砦を預かる佐久間盛重は、500余の兵とともに打って出たが、敗北し自らも戦死した。

 鷲津砦を守備する飯尾定宗、織田秀敏は籠城戦を試みたが、それは叶わず討ち死にした。こうして大高城の周辺は、今川方によって制圧された。

 制圧後、義元の率いる本隊は沓掛城を発つと、大高城の方面に進軍し、さらに西に向かって進み、南に進路を取った。

 5月19日の昼頃、義元の本隊は桶狭間に到着すると、戦勝を祝して休息し、来るべき信長との戦に備えたのである。総勢約2万といわれているが、義元の本陣を守っていたのは5千から6千くらいの軍勢だったという。

 後述するとおり、信長が桶狭間に進軍したのは、5月19日午前のことである。中嶋砦を守備する織田方の佐々政次、千秋四郎らは、信長出陣の報告を受けて、大いに士気が上がった。

 早速、佐々、千秋は今川方に攻撃を仕掛けるが、返り討ちに遭い討ち死にしてしまった。逆に、士気が高まったのは、今川方のほうだったのである。

 熱田神宮で戦勝祈願を終えた信長は、5月19日午前に鳴海城(名古屋市緑区)近くの善照寺砦に入った。ここで、織田方は桶狭間に今川方が駐在しているとの情報を得たので、桶狭間への進軍を開始した。

■運命の桶狭間の戦い

 5月19日の午後になると、にわかに視界を妨げるような豪雨に見舞われた。織田方はこの悪天候を活用し、義元の本陣に突撃する。

 不意を突かれた義元は脱出を試みたが、味方は次々と討ち取られ、義元は毛利良勝に組み伏せられ、ついに首を討ち取られたのである。義元を失った今川方は戦意を失い、一斉に桶狭間から退却した。

 同じ日の夕方、元康のもとに外叔父・水野信元の使者・浅井忠道が訪れ、義元の死を報告した。同時に織田方が来襲する前に、大高城を退去するよう勧められたのである。元康の心境は推し量るしかないが、父祖伝来の三河支配への強い意欲を抱いたに違いない。

 元康は引き続き情報収集に努め、夜半になって大高城をあとにした。翌5月20日、未だ岡崎城には今川氏の残党が残っていたので、元康は松平氏の菩提寺・大樹寺(愛知県岡崎市)に入り軍事衝突を避けた。同月23日、今川氏が岡崎城(同左)を捨てたので、元康は晴れて入城したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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