【戦国こぼれ話】戦国の梟雄・宇喜多直家が築城し、子の秀家に引き継がれた名城、岡山城のすべて
過日、岡山城(岡山市北区)などに傷をつけた男が逮捕された。これは許し難い蛮行である。岡山城は戦国の梟雄・宇喜多直家が築城し、子の秀家に引き継がれた名城である。その歴史を紐解いてみよう。
■岡山城の築城年代
現在の岡山城は、第二次世界大戦で灰燼に帰したため、戦後になって復興されたものである。岡山城は漆黒の姿から別名「烏城」とも称され、市民から親しまれている。戦国期の史料では、単に「岡山」と記されることが多く、岡山城や直家または秀家を示していることが多い。
通説によると、岡山城は元亀元年(1570)に宇喜多直家が岡山(城)を本拠とする金光宗高を謀殺し、天正元年(1573)に改修したといわれている(『備前軍記』など)。
ところが、元亀3年(1572)10月の小早川隆景の書状には、毛利氏と宇喜多氏との和平に際して、「岡山より」という文言が史料中にみえる(「乃美文書」)。この史料が「岡山」という文言の初出であると指摘されており、少なくとも直家の岡山城の築城は通説より1年遡ることになる。
■羽柴(豊臣)秀吉と岡山城
しかし、岡山城や城下に関する史料は乏しく、城下町形成の一端を示すことは非常に難しい。岡山城下町の一端をうかがえるのは、天正10年(1582)4月に羽柴(豊臣)秀吉が発給した掟書の写である(「諸名将古案」)。秀吉の弟・秀長に宛てられた掟書の概要は、次のとおりになろう。
(1)岡山町で売買するときは、従来どおり「かわり(為替?)」を取り交わし買うこと。
(2)町中において、在陣の者たちは無礼な振る舞いをしないこと。
(3)備前国衆と喧嘩口論があった場合は、理非を問わず在陣の者に非があること。
同年3月以降、備中高松城の攻防が繰り広げられた際、秀吉は備前国に駐留しており、弟の秀長を通して軍の統制を図っていた。史料の1条目では、岡山では町内で商業活動が行われていた状況がうかがえ、売買の際には「かわり(為替?)」による決済が求められている。
2条目では、町の人々とのトラブルを避け、無礼な振る舞いを禁じている。3条目では、備前国衆との喧嘩口論に及んだときは、在陣の者(秀吉の軍)に非があると記している。宇喜多家の当主は秀家であったが、羽柴軍の駐留の件に関しては、秀吉の掟書にしか効果が認められなかったのであろう。
■岡山城の改修
次に、岡山城改修の時期について考えてみよう。通説によると、天正18年(1590)から慶長2年(1597)にかけて、岡山城の改修工事が行われたとされてきた(『備前軍記』)。城は軍事施設でもあるので、必要に応じて改修されたのは事実だろうが、始期については異論が示されている。
天正16年(1588)に比定される7月26日付の花房又八書状案(父・正幸宛)には、岡山の普請について大石をどれほど確保できているかを確認し、加えて岡山の詰衆を動員して普請を行うよう、又七に指示を書き送っている(「備藩国臣古証文」)。
命令の主体は在京中の秀家であり、又七を通して岡山の留守を預っていた正幸に伝えたものだ。書状の普請とは岡山城の改修と考えられるが、むろんこれ以前にも改修した可能性は否定できない。
■岡山城下町の形成
城下町に関しては、いくつかの方針が定められている。文禄2年(1593)に推定される秀家の掟書には、次のように記されている(「備藩国臣古証文」)。
(1)天瀬に侍屋敷を設定し、商人は住んではならないこと。
(2)商人が家を造る場合は、新町などいずれの屋敷に限らず古い屋敷を取り壊してもよいが、2階建てとすること。
(3)大河に橋を架けるので、川東に新しい屋敷を造ることとし、いずれの給人が支配していても、1軒ずつ請銭を徴収すること。
1条目と2条目は武家と町人との混住を避け、それぞれの住む居住区を定めた規定である。3条目は大河に橋をかけ、新しい土地に居住空間を築くことを認めているが、1軒ごとに税を課すというものである。これは、新たな商業政策の振興であり、瀬戸内海と旭川の接点にあるメリットを最大限に生かしたものと指摘されている。
文禄2年(1593)の秀家の判物写には、「岡山普請町替」が行われたとあり、城下全域で居住区の再編が行われたという(「備藩国臣古証文」)。ただ、残念なことに、その具体的な内容は不明である。
このように、岡山城下では武家と商家との身分を明確にし、その居住区域を定め、町割が編成された。それらは城下町編成の基本となるが、実際にどこまで達成しえたかは不明である。城下ではなく、村落に住んでいた武士もいたに違いない。
宇喜多時代の岡山城に関しては、まだまだ不明な点が多いが、今後さらなる研究の進展を期待したい。春には、ぜひ岡山城を訪ねたいものだ。