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【戦国こぼれ話】名将・真田昌幸が耐え抜いた、2度の上田城における徳川氏との対決とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
上田城の東虎口櫓門。真田氏は徳川家康の猛攻を2度も凌いだ。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 例年4月下旬頃、長野県上田市では「上田真田まつり」が開催される。しかし、今年はコロナの影響で延期になった。来年はぜひ期待したいところだ。ところで、上田城主だった真田昌幸は、2度にわたって徳川氏の軍勢を撃退した。その詳細を取り上げることにしよう。

■第一次上田城の攻防

 天正10年(1582)6月に本能寺の変で織田信長が横死すると、信濃の情勢は一変し、天正壬午の乱が勃発した。同年10月、徳川氏と北条氏は和睦を結び、ようやく戦いは終わった。

 和睦条件の一つとして、真田氏の上野沼田領(群馬県沼田市)と北条氏が制圧した信濃佐久郡(長野県佐久市など)を交換するという条項があった。これがのちに火種となる。

 翌天正11年(1583)以降、真田昌幸は上田城(長野県上田市)の築城を開始し、沼田領や吾妻領を巡り北条氏と交戦状態に陥った。

 天正13年(1585)、甲斐へ着陣した家康は、昌幸に北条氏へ沼田領を引き渡すよう求める。ところが、昌幸はこの要請を拒否し、家康と敵対関係にあった上杉氏と誼を通じた。ここから第一次上田合戦がはじまる。

 この対応に家康は怒り、同年8月に家臣の鳥居元忠ら軍勢を上田城に送り込み、真田討伐の兵を起こした。徳川軍は甲斐から信濃に侵攻し、上田盆地に兵を展開した。真田方は兵力が乏しかったが、昌幸は上田城に、長男・信幸(信之)は戸石城(長野県上田市)に、昌幸の従兄弟・矢沢頼康が矢沢城(同上)にそれぞれ籠城し、徳川軍を迎え撃った。

 同年閏8月、徳川方は上田城を攻撃したが撃退され、退却の際に追撃を受けた。戸石城の信幸の軍に矢沢勢も加わると、徳川軍は壊滅状態に陥り多数の兵を失った。一方の真田軍の犠牲は少数に止まった。

 翌日、徳川軍は真田方の丸子城(長野県上田市)を攻撃するが攻略に失敗し、結局は上田から撤退せざるを得なくなった。一連の戦いは、『真田軍記』などの軍記物語により、昌幸の優れた智謀がクローズアップされることになった。

 この合戦を契機にして、徳川方では本多忠勝の娘・小松姫を真田信幸へ嫁がせ関係を深めた。一連の戦いは、真田氏が大名化を遂げる大きな画期となった。

■関ヶ原合戦はじまる

 慶長5年(1600)6月、家康が不穏な動きを見せた会津の上杉景勝を征伐するため兵を挙げた。その隙を突いて、石田三成は毛利輝元を総大将に据えて挙兵した。これがいわゆる関ヶ原合戦のはじまりである。ところで、この関ヶ原合戦において、昌幸が西軍に与した理由を考えてみよう。

 そもそも昌幸は、慶長3年(1598)に豊臣秀吉が亡くなると家康方についていた。慶長5年(1600)6月に家康が上杉景勝を討伐する際も、東軍に従って会津方面に出陣した。三成の挙兵を知った家康は、滞在先の小山(栃木県小山市)で評定を催し、諸大名を味方に付けることに成功した(小山評定)。

 昌幸が三成挙兵の一報を知ったのは、犬伏(栃木県佐野市)の地であった。これまでの流れを勘案すると、東軍に与するのが自然なように思う。

 しかし、昌幸は「表裏」の人と称される策略家であり、思い切った行動に出る。それは、昌幸自身と次男・真田信繁(幸村)が上田城に戻って西軍に味方し、長男・信幸はそのまま東軍に従うというものであった。これが「犬伏の別れ」と称される逸話である。

 これはいかなる判断に拠るものなのか。それは、3人が東軍に与して敗北を喫した場合、真田家が滅亡してしまうため、それぞれが東西両軍に分かれたほうが得策であるという判断である。

 そうなると、信幸の妻が本多忠勝の娘であるため、信幸が東軍についたほうがよい。要するには、昌幸は真田家の末永い存続を願って、究極の決断を下したということになろう。

■第二次上田城の攻防

 第二次上田合戦は、関ヶ原合戦という「天下分け目の戦い」において起こった。昌幸と次男・信繁は西軍に属し、嫡男・信幸は東軍に与した。

 小山評定後、徳川秀忠の率いる部隊は中山道を進んだ。秀忠の進む中山道の先には、昌幸と次男・信繁が籠もる上田城があった。秀忠は上田城を開城させるため、信幸と本多忠政に昌幸の説得に向かわせた。

 しかし、百戦錬磨の昌幸は返事を先延ばし、籠城のための時間稼ぎを行った。数日後、昌幸は秀忠に対し宣戦布告を行った。ここから両者の戦いがはじまる。

 秀忠は「関ヶ原に急ぐべき」という家臣の忠言を聞き入れず、上田城への攻撃を決意した。これは、主力軍の到着を遅らせるという昌幸の思う壺であった。ここから昌幸は数々の奇策をめぐらし、少ない軍勢ながら秀忠の大軍を巧みに翻弄した。

 たとえば、上田城外へ出た真田軍は、徳川軍に攻撃されるとすぐさま城内に逃走した。しかし、それは昌幸の作戦で、徳川軍が大手門へ近づくと、城内の鉄砲隊が一斉に射撃をして、徳川軍を蹴散らした。このような意外な作戦によって、真田軍は徳川軍を相手にして、一歩も引けをとらなかったのである。

 さすがの秀忠も真田軍の粘り強い抵抗に手を焼き、ついに関ヶ原への到着を優先することとした。ところが、戦いによる遅延と共に、道中の悪天候が災いし、思うように歩を進めることができなかった。結局、秀忠は9月15日の関ヶ原本戦に間に合わないという大失態を演じることになる。

 これにより、秀忠は家康の面会を断られるほどであった。戦後、昌幸・信繁の2人は、九度山(和歌山県九度山町)での幽閉生活を余儀なくされたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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