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【戦国こぼれ話】安土城だけではなかった。注目される小牧山城。そして、織田信長が居城とした城の数々

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長の天下取りの布石となった岐阜城。(写真:HIRO493728/イメージマート)

 先日、愛知県の小牧市教育委員会は、織田信長が築いた国史跡の小牧山城跡の発掘調査により、本丸の東側に玉石を敷き詰めた庭園と思しき遺構を確認したと発表した。信長といえば、すぐに安土城(滋賀県近江八幡市)を思い浮かべるが、そうではない。信長の城について考えてみよう。

■尾張で居城だった清洲(須)城

 父・織田信秀没後の天文20年(1551)、織田信長は18歳で家督を継承した。その後は、一族との争いに明け暮れることになった。

 弘治元年(1555)、信長は尾張下四郡守護代である清洲(須)城(愛知県清須市)の織田信友を討伐し、同城を居城に定めた。その2年後には、弟・信勝らの反乱を押さえ込むことに成功する。

 永禄2年(1559)になると、信長は尾張上四郡守護代で岩倉城(愛知県岩倉市)主の織田信賢を追放し、念願の尾張統一を実現した。

 清須城は、尾張守護の斯波義重が築城した平城である。15世紀後半なると、尾張守護代だった織田敏定が守護所のあった下津(愛知県稲沢市)から本拠を清須城に移した。以後、守護の斯波義良も同城に移ったという由緒ある城だ。

■桶狭間の戦い後、小牧山城へ

 この頃、東海方面で威勢を誇っていたのが、駿河などの大名・今川義元だった。永禄3年(1560)、義元が駿河など3ヵ国の大軍を率い西上の途につくと、信長は義元を桶狭間で迎え撃った。桶狭間の戦いである。

 戦いの結果は、大方の予想を覆す信長の大勝利であった。桶狭間で今川氏を破った信長は、その名を轟かせ、天下取りの第一歩を踏んだのである。

 戦いの直後、信長は徳川家康と清洲同盟を結ぶと、ただちに美濃国・斎藤氏の攻略に乗り出した。その拠点となったのが、広大な濃尾平野にそびえ立つ小牧山だった。

 永禄6年(1563)、信長は丹羽長秀に命じて築城させ、ここを居城として美濃攻めに力を入れた。これが今回、話題となった小牧山城である。

 小牧山城は濃尾平野の小牧山(標高85.9m)に築かれた山城で、東西約600m、南北約400mの広さがあった。

 山頂に本丸を築いた小牧山城は、周囲に重臣の居館と多数の曲輪が配置された。南から西方面の小牧山の山麓には、清洲(須)城から城下町を移転していた。

■岐阜城に移動する

 信長は小牧山城を拠点として、美濃斎藤氏と戦った。永禄10年(1567)、信長は西美濃三人衆の内応によって、斎藤龍興の居城である稲葉山城(岐阜市)の攻略に成功した。

 信長は龍興を追放すると、稲葉山城を岐阜城と名称を改め、自身の発給文書に「天下布武」の朱印を用いるようになった。そして、尾張、美濃支配の足がかりを作るのである。

 岐阜城は、金華山(標高329m)に築かれた山城である。信長は岐阜城を居城に定めた際、大修築を行った。城下町を整備し、楽市楽座を行ったのは有名な話である。

 以後、信長は9年にわたって岐阜城を本拠としたが、天正4年(1576)に安土城を築いた。そして、信長は岐阜城を子の信忠に譲ると、自身は安土城に移ったのである。

■続く信長と城の研究

 城の研究は、文献(古文書、古記録)だけでは限界がある。考古学、縄張りの研究と組み合わさって進展する。今回の小牧山城の調査も興味深いが、ほかの信長の城でもさらに研究の進展を期待したい。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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