【戦国こぼれ話】歴史ファンからバレンタインのチョコレートを供えられた宇喜多直家とは、どういう武将か

宇喜多直家が築いた岡山城。別名は烏のように壁が黒かったので、烏城と称された。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 2月11日、宇喜多家菩提寺の光珍寺(岡山市北区)で「宇喜多直家☆フェス」が行われた。その時点では少し早いが、多くの歴史ファンがチョコレートを供えたという。宇喜多直家とは、どういう武将たっだのだろうか。

■幼い頃の直家

 享禄2年(1529)、直家は興家の子として誕生した。ただ、興家は愚かで無能な人物だったという。興家は直家が幼少の頃に没したので、直家は流浪生活を余儀なくされた。この受難の日々は、直家を精神的にたくましく成長させたことであろう。

 直家は父に似て凡庸だったというが、それは偽りの姿だった。ある日、直家は凡庸さを嘆き悲しむ母方の伯母に対して、「もし私が人並みの器量があるとわかれば、嶋村氏(祖父の能家を謀殺した浦上氏の家臣)に殺害されるので、わざと無能な振りをして時期を待っているのです」と述べたという(『備前軍記』)。仮に事実ならば、子供の言ったことなので恐ろしい話だ。

 浦上宗景に取り立てられた直家は、浮田大和守の討伐に成功し、新庄山城(岡山市東区)を与えられた。そして、天文21年(1551)、直家は宗景の命令により、沼城(岡山市東区)主・中山信正の娘を妻として迎えたというが、直家はすでに策略を練っていた。

 ほぼ時期を同じくして、嶋村氏と中山氏が宗景に謀叛を企んでいるとの噂が流れた。直家は宗景のもとに参上すると、懐から嶋村氏が謀叛を企んでいる証拠の書状を取り出し、「嶋村氏は祖父・能家の敵でもあるので、中山氏もろとも喜んで討ち取りましょう」と申し出た。

 直家は小さな茶亭を作り、そこに中山信正を招き酒宴を催し、討つ計画を立てた。ある日、直家はいつものように信正を茶亭に招いた。信正はしたたかに酔って深夜になると、直家は一刀のもとに切り伏せ、宗景に烽火で合図を送ったのである。父さえも平気で裏切ったのだ。

 あらかじめ直家は宗景と、烽火をあげたら嶋村氏を寄越すよう打ち合わせていた。何も知らない嶋村氏が直家のもとにやってくると、直家は油断していた嶋村氏の軍勢を一気に打ち破り、その居城・砥石山城(岡山県瀬戸内市)を乗っ取った。直家は中山氏と嶋村氏を討伐した功により、恩賞として沼城を与えられたのだ。

■織田氏・毛利氏との狭間で

 戦国時代になると、備前・美作両国には毛利氏などが侵攻し、中小領主はいずれかの傘下に入らざるを得なかった。その状況下で、直家は宗景と緩やかな連携を保ったが、これも生き残るための妥協にすぎなかった。

 天正2年(1574)、宇喜多・浦上の両者は決裂し、交戦に及んだ。互いの利害関係が相反するようになったからだろう。翌天正3年(1575)、直家は宗景を居城の天神山城(岡山県和気町)から追放することに成功し、晴れて備前・美作を領することになった。

 天正5年(1577)、毛利氏に与した直家は、播磨に進駐していた織田軍を相手にして、毛利軍の最前線として活動していた。この年から山中鹿介が織田方に与し、尼子氏再興を悲願として播磨国上月城(兵庫県佐用町)に籠もり、毛利氏、宇喜多氏に対抗した。直家が与した毛利氏は、織田氏と敵対関係にあったのだ。

 直家は上月城の戦いで敗北を喫し、苦境に立たされ、やがて毛利氏から距離を置くようになった。天正7年(1579)、直家は羽柴(豊臣)秀吉を通して、織田方に寝返った(『信長公記』)。秀吉の口利きもあり、信長から(所領安堵を保証した)「御朱印」が与えられたのだ。

■直家の優れた判断力

 ほぼ同じ頃、有岡城(兵庫県伊丹市)主・荒木村重が信長に叛旗を翻し、三木城(兵庫県三木市)主・別所長治も毛利氏に与同する動きを取った。しかし、村重は敗北して有岡城から逃亡し、別所氏は一族の者が揃って切腹した。直家は途中で毛利氏を裏切ったのだから、類稀なる「先見の明」があったのだ。

 また、直家は婚姻をうまく活用し、周辺の中小領主と結んだ。結婚する子供の数が足りなければ、「遠い縁戚までたどればよい」と言ったほどである。政略結婚で周辺の中小領主を併呑し、版図を広げたのだ。

 『太閤記』の著者小瀬甫庵は、「謀略を最も得意とし、正しい道を知らない者の天下は長く続かない」と直家を評した。毛利氏も織田氏も、盛んに裏切る直家を油断ならない人物として警戒していた。

 直家はその死に際して、家臣らに殉死を求めたといわれている。しかし、それは拒絶された。直家が「梟雄」としての最期を迎えたのは、天正10年(1582)1月のことである。

 ちなみに「梟雄」とは、「残忍で強く荒々しいこと。悪者などの首領」を意味する。とはいえ、上記の直家像の大半は後世に成った二次史料に書かれたもので、あまり出来過ぎた話である。