【深掘り「逃げ上手の若君」】若君(北条時行)の兄・邦時を惨殺した五大院宗繁とは、いったい何者なのか
「逃げ上手の若君」(以下、「若君」と略)では、五大院宗繁が重要なキャストの1人である。「若君」では北条邦時を殺害し、主人公である弟の北条時行の命をも狙おうとした。今回は、五大院宗繁を深掘りすることにしよう。
■五大院宗繁と邦時
五大院氏は北条氏に仕えていた(北条氏得宗家被官の御内人)が、詳しいことがあまりわからない。宗繁は生没年不詳。父母の名前もわかっていない。宗繁の妹(常葉前)は、北条高時の側室だった。ゆえに、宗繁と高時は、強い関係で結ばれていた。
宗繁が登場するのは、鎌倉幕府の滅亡が間近に迫った正慶2年(1333)5月のことである。以下、邦時殺害の経緯などの詳細を「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」(『太平記』巻十一)から探ることにしよう。
すでに触れたとおり、宗繁は高時に仕えており、その重恩を受けていた。高時の子の邦時は宗繁の妹との間にできた子で、宗繁の甥でもあった。そして、宗繁の主でもあった。それゆえ高時は、宗繁が裏切るはずがないと確信し、邦時を託し逃亡を促したのである。
その際、高時は宗繁に「邦時をそなたに預けるので、いかなる手段を使ってでも隠し置き、時期が到来したら、挙兵して私の恨みを晴らしてほしい」と言うと、宗繁は了解した旨を告げた。そして、鎌倉での合戦の際中に、宗繁と邦時は逃亡したのである。
■残党狩りの開始
2・3日後になると、豪族らは足利氏、新田氏に従い、北条氏の残党狩りを行った。これにより、隠れていた北条氏の残党は捕縛され、次々と殺害されたのである。
宗繁はその状況を見て「まずい」と思い、このまま命を失うよりは、邦時の居場所を敵(足利氏、新田氏)に教え、所領が安堵されるほうがいいと考えた。
ある日の夜、宗繁は「ここにいれば誰にも知られないと思っていたが、なぜかいることがばれてしまった。やがて、船田入道(新田義貞の家臣)がここへ押し寄せて、邦時を探索する情報がある人から寄せられた」と邦時に説明した。
そして、宗繁は「夜に紛れて伊豆山へお逃げになってください。私(宗繁)もお供をしたいのですが、一緒に逃げると、船田入道がどこまでも追い掛けてくるので、私はあえてお供をしません」と邦時に言ったのである。
こうして同年5月27日、邦時は部下1人に太刀を持たせ、馬にも乗らず、敗れた草履に編笠をかぶると、泣く泣く伊豆山へと向かったのである。これは、宗繁の策略だった。
宗繁は自分が邦時を討つと「恩知らずだ」と人から言われるので、あえて敵に討たせて、敵から恩賞をもらおうとしたのである。その後、宗繁は敵の船田入道のもとへ行って「邦時の居場所を教えるので、討つことができたら、所領の安堵を推挙してほしい」旨を申し出た。
■邦時と宗繁の最期
船田入道は「なんと悪い奴だ」と思ったが、とにかく所領の安堵を約束して、邦時を待ち伏せることにした。5月28日の早朝、邦時が相模川を渡ろうとすると、宗繁が「あれが邦時だ」と叫んだ。すると、船田入道の手の者は、ただちに邦時を生け捕りにしたのである。
その後、邦時は鎌倉に入ったが、見物する人は涙を流したという。邦時はまだ幼く、何か害があるわけではないと考えたが、朝敵の長男でもあるので許すことはできず、翌日の早朝に首を刎ねたのである。
宗繁は旧主(高時)の恩を忘れ、幼い邦時を敵に引き渡すなどしたため、義を忘れた悪人であるとして、世の人から爪弾きにされた。新田義貞はその話を聞いて、宗繁を討とうとしたので、恐れた宗繁は逃亡した。宗繁に食事を施すものはなく、やがて宗繁は乞食となり、路傍で餓死したという。
これが、宗繁が邦時を陥れ、死に追いやった真相である。なお、「若君」では筋骨隆々とした宗繁が時行を討とうとし、最期は首を斬られるが、フィクションである。