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【深掘り「麒麟がくる」】なぜ本能寺の変は起きた? 最新の有力説を解説

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
本能寺の信長公廟。織田信長は明智光秀に急襲され、無念の死を遂げた。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」もついに最終回「本能寺の変」で幕を閉じた。最後の舞台は本能寺の変である。

 本能寺の変がなぜ起こったのかについては、近世以来、さまざまな説が唱えられてきた。現在では、なんと数十もの説があるといわれているが、中には箸にも棒にもかからないような、とんでもなく酷い説すらある。一言でいうならば、妄想の類といってもよいだろう。

 以下、主要な説に絞って、簡単に解説しておこう。

■怨恨説、野望説など

 長らく本能寺の変にまつわるテレビドラマ、映画、歴史小説などで採用されてきたのが、明智光秀が織田信長に恨みを抱いていたという説である(怨恨説)。なぜ、光秀は信長を恨んだのだろうか。

 天正10年(1582)3月に武田氏が滅亡した際、光秀は信長ら諸将とともに酒を酌み交わしていた。光秀が小用に立つと、突如として信長が怒り狂って「なぜ中座する。きんか頭(禿げ頭)め!」と怒鳴り、光秀の首に槍を突きつけたという逸話がある。諸将の前で辱めを受けたので、光秀は信長を恨んだというのだ。

 ほかにも、天正10年(1582)5月に光秀が徳川家康を安土で接待した際、肴が腐っていたので信長が怒り、接待役を辞めさせられた。そのうえで、光秀を羽柴(豊臣)秀吉の与力として備中に派遣したという説などがある。いずれも、信頼に足りうる史料に書かれていない。

 光秀が信長に代わって天下を取りたかった、という野望説なるものがある。野望説の根拠も後世に成った二次史料に書かれたもので、やはりにわかに信が置けない。

■朝廷黒幕説、足利義昭黒幕説、四国政策説

 次に、朝廷黒幕説、足利義昭黒幕説、四国政策説について考えてみよう。

 朝廷黒幕説とは、信長が正親町天皇にさまざまな嫌がらせをしたので、危機を感じた朝廷が光秀に「信長を討て!」と命じたとされた説である。信長による嫌がらせとは、正親町天皇に譲位を迫ったこと、暦を尾張などで使われているものに変更するよう迫ったこと、京都馬揃えを正親町天皇に披露して軍事力を誇示した(ビビらせた)こと、などである。

 しかし現在では、それらは朝廷に対する嫌がらせではなく、そもそも朝廷が光秀に「信長を討て!」と命じた書状や記録がないことから、否定的な見解が多数を占めている。

 足利義昭黒幕説とは、本能寺の変が起こる以前から義昭と光秀は互いに連絡を取っており、義昭が光秀に「信長を討て!」と命じたという説である。こちらは、証拠とされる史料の誤読や解釈について論理の飛躍が大きいがゆえ、今では支持されることがない説だ。

 四国政策説とは、信長が長宗我部元親に四国を統一した際、その4ヵ国を与えると約束したが、それを反故にしたことが発端となった説だ。当時、長宗我部氏の取次を担当していたのが光秀だったので、両者の狭間にあって窮地に追い込まれた。

 光秀は立場が悪くなったうえに、信長から取次を更迭された。ゆえに「このままではまずい!」と危機感を感じた光秀は、信長を討とうと考えたという。しかし、この説も決定的な証拠がないので、弱いと感じるところである。

■単独犯説

 これまでの説では、光秀の動機(信長への恨み、天下取りの野望)、あるいは信長を排除したい勢力(朝廷、将軍)の存在などが注目されてきた。

 本能寺の変が注目されるのは、光秀が本能寺を急襲し、見事に討ったという点に集約されよう。しかし、信長に反旗を翻した武将は非常に多く(丹波の波多野氏、播磨の別所氏、摂津の荒木氏など)、その点では珍しいことではない。後者は、奮闘むなしく討ち取られたので注目されなかったにすぎない。

 特筆すべきは、信長から厚い信頼を得ていた光秀が、わずかな手勢で信長が本能寺に滞在したことを知り、本懐を果たしたことだ。光秀は常時、配下の者に信長の動きを監視させていたのだろう。

 光秀の動機は不明であるといわざるを得ないが、信長に何らかの不満を抱いていたのはたしかだろう。しかし、計画的でなかったのは事実で、それは変後の光秀の動きからも明らかである。

 たとえば、細川藤孝(幽斎)・忠興父子は、娘のガラシャが忠興の妻だったのだから、味方になってくれるものと考えていた。しかし、光秀の願いもむなしく、藤孝(幽斎)・忠興父子は味方になってくれなかった。昵懇の間柄だった、筒井順慶も味方になることなく離れていった。

 光秀の変後の動きも迷走状態である。朝廷にあいさつに行って献金し、信長の代わりに京都の治安維持を司る権限を得たまでは良いとして、備中高松城(岡山市北区)から東上する秀吉に対する対策がなっていない。結局、光秀は右往左往した挙句、6月13日(本能寺の変から11日後)の山崎の戦いで秀吉に敗れ、その日のうちに土民に討たれて非業の死を遂げた。

 もし光秀が朝廷や義昭とつるんでいたならば、朝廷から秀吉討伐の綸旨をもらうとか、あるいは義昭が庇護を受けていた毛利氏に働きかけ、光秀の救援に向かうなど、何らかの方法があったはずである。あるいは、変の決行前に諸大名と密約を交わし、味方を増やしておくなどの計画性があってしかるべきである。

 しかし、そうした事実が史料で確認できない以上、結論としては光秀の単独犯といわざるを得ない。計画性がなかったゆえに、光秀は秀吉にあっけなく負けたのだ。

 単独説は「おもしろくない!」「あっと驚く結論がないのか!」「平凡すぎる!」とお叱りを受けるかもしれないが、信頼できる史料に基づけば、これが現時点で最も有力な説だ。私はそう考える。 

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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