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【「麒麟がくる」コラム】明智光秀は本当に善政を行ったのか。光秀の丹波支配を検証する

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀は丹波支配に際して善政を行ったというが、それは事実なのだろうか。(提供:アフロ)

■丹波を支配した明智光秀

 明智光秀は織田信長から丹波国一国を与えられ、支配に乗り出した。一説によると、光秀は善政を行ったといわれているが、その支配はどのように行われたのだろうか。検証することにしよう。

■丹波支配の様相

 明智光秀の丹波支配は、どのように行われたのだろうか。天正7年(1579)8月、光秀は氷上郡内の寺庵、高見山(兵庫県丹波市)下の町人、所々の名主・農民に宛てて判物を発給した(「冨永忠夫氏所蔵文書」)。

 内容は赤井氏を成敗したので、彼らに還住(もと住んでいた場所に戻ること)を命じたものである。それは、信長の意向を踏まえたものだった。そして、天正8年(1580)以降、光秀による本格的な丹波支配を確認できる。

 天正8年(1580)2月13日、光秀は天寧寺(京都府福知山市)に判物を送り、諸式の免除、軍勢の陣取りや竹木等の伐採を禁止する旨を伝えた。これは光秀の判物であることから、自身の意向で発布したものであり、主君である信長の意を奉じたものではない。

 光秀の丹波支配は信長の方針に沿いながら、独自の判断で行っていた。天正9年(1581)10月、福知山城(京都府福知山市)主の明智秀満が光秀の判物を根拠として、諸式を免除した(以上、「天寧寺文書」)。福知山城の周辺地域は、光秀の配下の秀満により支配が行われたのである。

 つまり、光秀の丹波支配は、いちいち信長の指示を受けるのではなく、自らの判断で行っていたことになろう。

■市場の開催や僧侶の還住

 天正9年(1581)7月、光秀は丹波の宮田市場(兵庫県丹波篠山市)に掟を定めた(『丹波志』所収文書)。冒頭の2ヵ条では喧嘩、口論、押買(不当な値段でものを強引に買うこと)を禁止し、国質、所質などを禁止している。

 また、毎月の市の開催日を4日、8日、12日、17日、21日、25日に定め、これらに違反する者は厳罰に処すると書かれている。こちらも判物形式になっており、信長の意向を汲んだ奉書とはなっていない。

 同年7月には、光秀の家臣で黒井(兵庫県丹波市)城主を務める斎藤利三が白毫寺(同)に判物を与えた(「白毫寺文書」)。内容は白毫寺に還住した衆僧について、陣への人足の負担を免除したものである。宛先は、白毫寺門前の地下人(じげにん。住民)である。

 黒井城の周辺は戦争で荒廃し、白毫寺の僧侶や周辺の住民らも逃げ出したのだろう。そこで、白毫寺の僧侶らの帰還に際し、経済的な負担を軽減するため、陣夫役を免除したのである。

■祈願成就のお礼

 同年8月、光秀は愛宕山威徳院(京都市右京区)に対して、祈願成就のお礼として、多紀郡宮田村(兵庫県篠山市)のうちから200石を奉納した(「色々証文」)。

 このことから、光秀は丹波攻略に際して(あるいはほかの戦いも含めて)、愛宕山威徳院に戦勝祈願をしていたことが判明する。たしかに、光秀は丹後出陣に際して、戦勝祈願を行っていたことがわかっている(『思文閣墨蹟資料目録』205号所蔵文書)。

■土豪への知行宛行(ちぎょうあてがい)

 天正8年(1580)9月9日、光秀は丹波船井郡の土豪・井尻助大夫に領知(領地)の宛行を行った(『世界の古書店目録』所収文書)。それは同族と思しき井尻甚五郎から収納した195石余に本知の55石余を加え、計250石余を新恩として与えたものである。

 光秀は新たに領知を井尻氏に与えることにより、配下に加えたのである。また、同年末には、宇津氏の領内からの年貢を受け取った旨の請取状も残っている(「中島寛一郎氏所蔵文書」)。

 同年5月、粟野氏、出野氏、片山氏は、知行高の指し出し(報告)を行った。宛先の杉生山右衛門尉の詳細は不詳であるが、光秀配下の奉行人であろう。この史料は、彼らの当知行分を一紙にまとめたもので、それぞれの知行分と地子分(土地の税)によって構成されている。

 また、彼らは侍と百姓の人数を指し出している(以上、「片山丁宣氏所蔵文書」)。これにより、光秀が軍役や年貢の負担を掌握しようとしたと考えられる。

■知行地の開作

 天正8年~10年(1580~82)の間に比定される光秀の書状は、丹波の三上、古市、赤塚、寺本、中路、蜷川の各氏に宛てたものである(「吉田文書」)。それは、初秋に信長が毛利征伐を行うため、当春に国役として15日間、面々の知行地で開作をすることを命じたものである。

 侍にも井を開き、溝を掘るように命じられている。また、侍が召し抱える下人、下部も開墾に従事させるというものだった。それだけでなく、百姓には来るべき毛利征伐の際には、動員されることが予告されている。

 このように、残された史料は乏しいのであるが、光秀は丹波国内に拠点となる城を築き、支配を展開したことがわかるのである。

 なお、光秀が善政を行ったという伝承があるが、明確な根拠はない。福知山市にある「明智藪」は、光秀とは関係ないことが指摘されている。また、土地が荒廃するなどした際、年貢の減免や免除は他の大名も行っていたので、特筆すべきほどのことではないのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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