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【「麒麟がくる」コラム】朝倉氏滅亡後の越前。明智光秀はどのように越前支配と関わったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀は織田信長の意向を踏まえて、越前支配に取り組んだ時代があった。(提供:アフロ)

■京都支配と明智光秀

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」のなかでは、朝倉氏滅亡後の越前支配に触れていなかった。以下、越前支配にかかわった明智光秀および織田信長の重臣らの動きを取り上げることにしよう。

■越前支配の様相

 朝倉氏の滅亡後、織田信長は朝倉氏の旧臣で、織田方に与した前波(桂田)長俊を越前守護代に任じた。同時に、信長は重臣である、羽柴(豊臣)秀吉、滝川一益、光秀の3人に対して、占領下の越前支配を任せた。

 それは、いくつかの史料で確認できる。もっとも早いものが、天正元年(1573)8月28日付の一益、秀吉、光秀の奉書(主の意向を家臣が伝える文書形式)である(「辻川利雄家文書」)。

 この史料は、織田大明神(剣神社。福井県越前町)の寺家に宛てたもので、神領を当知行(現在支配している状態)に任せて安堵したものである。

 併せて坊領や山林も従前とおり、支配を認めるとしている。寺家というのは、剣神社の神宮寺である織田寺のことと考えられる。

 この史料では、光秀が日下(日付の下)に署判を加えているので、実務担当者だったと考えられる。一益は文書の奥(文書に向かって一番左側の位置)に署判を加えているので、実質的な越前支配の担当者だったと推測される。真ん中に秀吉の署名を確認できるが、花押が据えられていない。

 その理由は、秀吉が近江の戦後処理で不在だったからだろう。また、文中に「前々のごとく当知行の旨に任せ、相違あるべからずの由に候」と奉書形式になっており、信長の意向を踏まえて指示している。

 信長の先祖は、剣神社の神官だったので、そのような経緯や事情から、早々に当知行安堵を認めたものと考えられる。実際に、信長が自身の黒印状で剣神社の社領などを安堵したのは、同年10月のことである(「剣神社文書」)。

 上記の例を除いて、光秀ら3人が連署した文書は奉書形式ではない。同年8月25日、信長は北庄(福井市)で各種商工業の座長を務める屋に朱印状を与えた(「橘文書」)。

 内容は、北庄三ヶ村の軽物座(絹織物を取り扱う座)について、以前のとおり申し付けるというものである。橘屋は信長により、引き続き軽物座の権益を保証されたのである。

 同年9月5日に発給されたのが、光秀ら3人の連署副状である(「橘文書」)。内容は信長の朱印状に任せ、橘屋の身上(立場)などについて、以前のとおりであると申し伝えたものである。

 この段階における光秀らの立場は、信長の意向(朱印状)に沿って、越前支配を展開していたといえる。朱印状と副状のセットは、その証左であるが、内実は多少複雑だった。

 つまり、この段階では光秀らは信長の意向に従っており、独自の支配が展開できていないといえよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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