【「麒麟がくる」コラム】天正3年の丹波攻略と大坂本願寺攻め。明智光秀に待っていた落とし穴
■京都支配と明智光秀
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」のなかでは、天正3年(1573)の丹波攻略と大坂本願寺攻めにおいて、明智光秀がいかに戦ったのか詳しく語られていなかった。
以下、天正3年(1573)の丹波攻略と大坂本願寺攻めにおける明智光秀の戦いぶりについて考えることにしよう。
■明智光秀の丹波攻略
天正3年(1575)9月下旬以降、まず光秀が攻め込んだのは丹波だった。当初、信長が敵対視していたのは、内藤如安(八木城主)と宇津頼重(宇津城主)だった。
ところが、実際に強敵だったのは、黒井城(兵庫県丹波市)の赤井(荻野)直正で、奥三郡(天田、何鹿、氷上の各郡)を支配していた。なお、赤井家の当主は忠家で、直政は叔父だった。
直正は丹波の国衆を配下に収め、その威勢は但馬にまで及ぼうとしていた。『甲陽軍鑑』によると、直正は「名高キ武士」の1人として、その名が挙がっている。
信長は光秀を支援すべく、片岡藤五郎なる者を丹波に向かわせた。光秀は直正が参陣していた但馬竹田城(兵庫県朝来市)を攻撃し、そのまま逃げる直正を追い掛け、ついに黒井城を攻囲した。
光秀は黒井城の周囲に12、3の付城を構築したため、兵糧の乏しい黒井城は翌年春に落ちるだろうとの噂が流れた。おまけに、丹波の国衆の過半数は、光秀に与したと伝わっている(「吉川家文書」)。光秀は、圧倒的に優勢だった。
ところが、ここで青天の霹靂というべき事態が勃発する。天正4年(1574)1月、織田方に与していた八上城(兵庫県丹波篠山市)の波多野秀治が突如として光秀を裏切り、赤井氏に与したのである。
その結果、光秀は無残な敗北を喫し、黒井城の攻囲を解くと、本拠の坂本(滋賀県大津市)へ退却したのである。波多野氏は長らく細川氏の配下にあって、丹波守護代を務めた名族である。
光秀は同年2月28日に再び丹波に出陣したが、その後の大坂本願寺攻めが実現しつつあったので、丹波平定は長期戦で臨まざるを得なくなった。
■大坂本願寺との全面戦争
天正4年(1576)に至って、信長と大坂本願寺の両者は全面戦争に突入した。同年4月、光秀は信長から大坂本願寺攻めの命を受け、原田(塙)直政、荒木村重、細川藤孝らと出陣した。
このとき大坂本願寺攻めの総大将を命じられたのは、直政だった。直政はあらかじめ信長から南山城と大和を与えられており、一身に期待を受けていた。
信長は直政に天王寺(大阪市天王寺区)に砦を築くように命じると、光秀と藤孝は守口(大阪府守口市)と森河内(大阪府東大阪市)に陣を敷いた。
そして、村重は野田(大阪市福島区)に砦を3つ構築し、敵の川手の通路を遮るよう、信長から命じられた。なお、村重はのちに信長に対して反旗を翻した。
信長には、作戦があった。大坂本願寺は楼岸・木津を押さえ、難波口(以上、大阪市中央区)から海上のルートを通っていた。ここが狙い目だった。
大坂本願寺は木津川を通るであろうから、木津川を奪取するというのが、信長の作戦だった。信長は海上交通を遮断することにより、優位に立とうとしたのだろう。
光秀は、佐久間信栄(信盛の子)とともに天王寺の砦の留守を預かることになった。大坂本願寺を攻撃したのは、根来・和泉衆を率いた三好笑岩(康長)、そして大和・南山城衆を率いた原田(塙)直政である。
■討ち死にした原田直政
『信長公記』には、同年5月5日、直政と笑岩が木津に入ると、約10000の大坂本願寺方が2人の軍勢を攻囲し、一斉に鉄砲を撃ちこんだと書かれている。
これにより直政と笑岩の軍勢は総崩れとなり、形勢は逆転。直政は討ち死にして果てた(『兼見卿記』によると、実際は5月4日に戦ったのが正しい)。
勢い付いた大坂本願寺方は、そのまま光秀らが守備する天王寺砦に攻め込んできた。たちまち光秀らは、窮地に陥ったのである。
光秀らの危急を聞きつけた信長は、直ちに京都から若江(大阪府東大阪市)に急行した。突然のことで、なかなか兵が集まらず、信長が率いた兵はわずか100騎ほどに過ぎなかったという。
その間も、天王寺の光秀からは厳しい戦況が伝えられた。同年5月7日、ようやく3000余の兵を集めた信長は、12000余の大坂本願寺方に攻め込んだ。
光秀らは態勢を整えてから戦うことを進言したが、信長は耳を貸すこともなく、そのまま敵を2700余も討ち取ったと伝わっている。信長の奮闘によって、光秀らは難を逃れたのである。