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【戦国こぼれ話】若武者・木村重成は大坂の陣の和睦の席で、徳川家康に2回も血判を捺させたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣家の栄耀栄華を誇った大坂城は、大坂夏の陣で豊臣家と運命を共にした。(写真:アフロ)

■戦国の「半沢直樹」だった木村重成

 2020年の大人気ドラマといえば、「半沢直樹」。主人公が悪い上層部や老獪な政治家を相手にして謝罪に追い込むのは、痛快無比で大好評だった。

 慶長19年(1614)、大坂冬の陣後の和睦の席で、豊臣方の若武者・木村重成は徳川家康と起請文を交わしたものの、「血判が薄い」と指摘して再度捺させたという。その逸話は正しいのだろうか。

■木村重成とは

 大坂の陣における豊臣方のヒーローといえば、重臣の一人・木村重成である。老獪な徳川家康とは対象的な若武者であり、和睦交渉の席では凛とした態度で一歩も退かなかったことで知られる。

 木村重成は、重茲(しげこれ)の子として誕生した。重茲は豊臣秀吉に仕え各地を転戦し、天正13年(1585)には、越中国府中に12万石を与えられた。文禄・慶長の役でも軍功が認められ、山城国淀に18万石に加増のうえ移されている。

 ところが、文禄4年(1595)に豊臣秀次事件が起こると、重茲は秀次との関係から罪を問われ、秀吉から切腹を命じられた。同時に重茲の長男・高成や娘も巻き添えとなり、不幸な死を免れなかった。

 このとき重茲の妻・右京大夫局(宮内卿局)は、重成とともに近江国にいったん逃れたが、のちに許され豊臣秀頼の乳母となった。そのような事情から重成は幼少時から秀頼に仕え、のちに長門守を称した。

■大坂冬の陣と和睦

 慶長19年(1614)の大坂冬の陣において、重成は今福の戦いなどで活躍した。その後、豊臣方と徳川方で和睦交渉が開始されると、重成は豊臣方の使者として重責を担った。当時、重成は10代の青年であったといわれているが、堂々とした立ち振る舞いは徳川方からも称えられた。

 『大坂冬陣記』によると、同年12月21日には、茶臼山にある家康の本陣で和睦交渉が行われた。大坂方からは重成と郡主馬が実質的な交渉役を務め、織田有楽・大野治長の使者が随行した。

 起請文は牛王宝印(ごおうほういん)の裏に誓紙として書かれ、家康の判が捺されたという。起請文の誓約内容は、次の5点である。

(1)籠城した牢人の罪は問わないこと。

(2)秀頼の知行は、これまでと変わりないこと。

(3)母・淀殿は、江戸で人質になる必要がないこと。

(4)大坂城を開城する場合は、望みどおり知行替えを行うこと。

(5)秀頼に対して、徳川方には裏切りの気持ちがないこと。

 この起請文には、家康の血判が捺されたという。血判は指を切り、その血を朱肉の代わりにして捺すものである。ところが、起請文を見た重成は、家康の血判が薄いと指摘し、再度捺させたというのである。

 非常に有名なエピソードである。弱冠10代の重成が、ときの天下人・家康に対して抗議したことは、面目躍如たるところがあった。

 しかし、家康の起請文には花押が捺されることが多く、必ずしも血判とは限らない。つまり、判というのは花押、朱印、黒印のいずれかの可能性がある。この時点で優位に立っていた家康は、本当に血判を捺したのかは疑問が残る。

 おそらく、この逸話は重成を引き立てるものであり、この期に及んで重成が血判の濃淡を問題にしたとは思えない。あまり無理な要求をすれば、和睦そのものが決裂する可能性があるからだ。

■和睦の破綻と重成の最期

 こうして重成は苦労して和睦を結んだが、破綻してしまった。翌慶長20年(1615)の大坂夏の陣において、重成は約4700の兵を率い、5月6日の午前2時頃に大坂城を発った。

 大坂城から東に約8キロメートル離れた若江(大阪府東大阪市)に向かい、家康・秀忠軍を打つためである。若江に到着したのは、3時間後の午前5時頃であった。

 徳川方の前線には、藤堂高虎の軍勢が陣を敷いていた。重成は全軍を3つに分け、徳川方を攻めようとした。高虎は重成の軍勢が若江に着いた情報を得ると、秀忠に報告し重成の軍勢と戦った。

 最初こそ重成は有利に戦い、藤堂良勝を討ち取るなどした。重成の軍勢は、それ以上藤堂軍を深追いせず次の戦いに備えた。家康・秀忠の首を取っていなため、大坂城へ戻ることはしなかったという。

 その直後、井伊直孝の率いる軍勢が戦線に加わり、重成の軍勢に攻め込んだ。しかし、重成の軍勢は撃退し、激怒した直孝は自ら軍勢を率いて突撃した。

 ところが、早朝から重成の軍勢は休むことなく戦ったため疲労困憊であり、劣勢は否めなかった。結局、重成は敵陣に1人で鎗を持って突撃し、無念の討ち死にを遂げた。

 重成の首は月代(さかやき)を剃って整えられ、伽羅の香りが漂っていた。家康は首を実検した際、その武将の嗜みに感服したといわれている。

 ただ、この話もどこまで本当かは不明である。重成の死は、武士の誉れと後世に伝わったのはたしかであり、今も人気が高い武将である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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