■当主不在の厳しさ

 現代でも急に社長が病に倒れ、社員が慌てふためくことがあるだろう。そこで、試されるのが社員の結束といえるのではないだろうか。

 黒田官兵衛(孝高、如水)が有岡城(兵庫県伊丹市)に幽閉された話は、あまりに有名である。黒田家の家臣は、いかにして危機を乗り越えたのだろうか。

■官兵衛が幽閉された経緯

 天正6年(1576)10月、織田信長が信頼する有岡城主の荒木村重が叛旗を翻した。これまで村重は信長から重用され、摂津の支配を任されていた人物であるが、突如として足利義昭・毛利輝元・大坂本願寺に与した。さすがの信長も、これには大いに驚いたらしい。

 当初、信長は「村重の母親を人質にすれば、この一件は水に流す」とした。しかし、村重の気持ちは変わらなかった。弱った信長は、1度は朝廷を通して、交戦中の大坂本願寺との和睦を模索したほどである。

 また、村重に謀反の翻意をさせるべく、蜂須賀正勝らが送り込まれたが、結局交渉は失敗に終わった。村重の決意は強かったのだ。

 最後に信長から村重のもとに派遣されたのが、ほかならぬ官兵衛であった。この経緯を詳しく記しているのは、『黒田家譜』である。

■『黒田家譜』の記録

 『黒田家譜』によると、そもそも官兵衛は主君の小寺政職が信長に叛旗を翻すとの噂を聞きつけ、それを翻意させるため、御着城(兵庫県姫路市)に向った。これが事の発端だった。

 政職は「村重が思い止まるならば、謀反を思い止まる」と官兵衛に答えたのである。しかし、すでに政職は信長に謀反をすることを決意していた。

 さらに、政職は村重に密使を送り、説得に向った官兵衛を暗殺するように依頼していた。政職と村重は、すでに「反信長」で繋がっていたのである。

 官兵衛は、そのことをまったく知らなかった。そこへ官兵衛が有岡城にあらわれたので、村重に捕らえられて幽閉されたというのである。

■黒田家の結束

 官兵衛が村重に捕らえられるという最悪の事態を受けて、黒田家中は一致結束したことが知られる。その事実については、「黒田家文書」にある家臣の起請文によって確認できる。

 全部で4通の起請文が残っているが、うち2通は宛先が「御本丸」になっている。2通の内容はほぼ同じであり、官兵衛が村重に捕らえれるという不慮の事態に際して、家臣は一致団結して「御本丸」に忠節を尽くすというものである。彼らは起請文を認め、一致団結したのである。

 従来、「御本丸」とは官兵衛の妻と理解されてきた。本来、本丸とは城郭の天守を示しているが、妻を意味しているのが興味深い。

 この段階において、黒田家中が職隆、叔父・休夢、官兵衛の弟・利高を中心にし、「御本丸」=官兵衛の妻を支える体制を築いたということになる。

 もう1通「御上様」宛ての起請文があり、その事実を裏付けている。1条目は官兵衛が捕らえられ、松寿(長政)が長浜(滋賀県長浜市)にいるが、疎略なく奉公すると書かれている。

 2条目は、松寿が若年であるので、職隆、休夢、利高の合議の結果に基づいて行動すると記されている。起請文が黒田家に残っていることから、宛先の「御上様」は官兵衛の妻を示すのではないだろうか。

 いずれにしても、職隆と休夢は、変わらず信長に従うことを表明した。秀吉は休夢に対して書状を送り、「官兵衛が村重に捕らえられていることは許し難いことである」と伝えるとともに、黒田家家臣の忠節に感謝している(『黒田家譜』所収文書)。結局、官兵衛の嫌疑は晴れたのであった。

■幽閉の代償

 有岡城が落城したのは、天正7年(1579)10月のことであった。1年近く幽閉されていた官兵衛は、膝の関節が曲がり、頭髪が抜けて禿頭になり、生涯回復しなかったという。大きな代償であった。

 ただ、異説によると、官兵衛の髪は女性のように長く伸びていたとか、有馬温泉で湯治をすると、膝関節が治ったとも伝わっている。

 ちなみに、毛利方に与した小寺氏は、三木合戦後に事実上滅亡した。のちに、小寺政職の子孫は、福岡藩主となった黒田家に召し抱えられたのである。