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【戦国こぼれ話】戦国時代にもいた外国人助っ人!? イタリア人武将・山科勝成は実在したのか!?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
甲冑を身にまとった外国人。戦国時代に外国人武将は実在したのか?(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

■助っ人の重要性

 プロスポーツでは、もはや欠かすことができない外国人助っ人。それどころかワールドワイドな社会になったので、企業でも外国人の採用者が増えている。

 実は、戦国時代にも山科勝成というイタリア人武将が存在したというが、それは事実なのだろうか?

■謎の外国人武将・山科勝成

 戦国時代の日本に渡来した外国人武将としては、イタリア人の山科勝成なる人物が知られている。その生涯は神秘のベールに包まれており、存在を疑問視する研究者もいるが、真相はいかなるものなのだろうか。

 天正5年(1577)、ロルテスというローマ人が蒲生氏郷のもとを訪ね、仕官を求めてきた。携えた紹介状によると、ロルテスは軍人であり、天文・地理や兵法に優れているばかりか、張良や孔明(古代中国の軍師)を凌駕する才覚を持つと記されていた。

 事実ならば、かなり優秀な人物である。早速、氏郷は家中で仕官を認めるべきか議論をし、最終的に認めることになった。ロルテスは「山科羅久呂左衛門勝成」と日本風に名を改め、火縄銃などの武器製造に携わったという。

■活躍した勝成

 その後、勝成は蒲生氏のもとで目覚ましい活躍を遂げた。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは大いに軍功を挙げた。

 さらに勝成は武器を買い付けるため、蒲生家の12名の家臣とともにローマを訪れた。天正10年(1582)に天正遣欧少年使節が大友義鎮(宗麟)らにより派遣されてから、わずか2年後のことになる。

 ローマで鉄砲30丁を現地で買い入れた勝成は、帰国後、氏郷から500石を加増され、以後もローマとの貿易を続けたという。

 その後も天正14年(1586)にはじまる九州征伐、天正18年(1590)の小田原合戦に従軍し活躍したが、以降、勝成の姿は史料上から消えることになる。

■根拠となる史料とは

 上記の根拠史料は、寛永19年(1642)に蒲生家の家臣・大野弥五左衛門が著した『御祐筆日記抄略』である。この史料を分析した辻善之助は、以下の通り疑問を示した(『増訂・海外交通史話』内外書籍)。

(1)紹介状を書いた人物の名が記されていないこと。

(2)勝成のローマ派遣が不審であること。

(3)当時の航海技術では7年の間にローマ・日本間を4回も往復するのは困難なこと。

(4)勝成がほかの史料に登場しないこと。

 特に(3)については、天正遣欧少年使節の場合、片道だけで2年余もかかっているので、考えにくいスピードである。

■信用できない『御祐筆日記抄略』

 そもそも『御祐筆日記抄略』は、成立当時に使われなかった言葉が用いられており、寛永19年(1642)より成立年が新しいのではないかといわれている。

 つまり、依拠した史料そのものが怪しいということになろう。したがって、現時点において、勝成の存在は疑問視されている。

■勝成の最期

 外務省が編纂した『外交志稿』(明治17年・1884)には、勝成の最期が記されている。文禄元年(1593)、氏郷は朝鮮に出兵すべく、船の建造を勝成に命じた。

 勝成は遣欧船でヨーロッパに向かったが、途中で船が事故に遭い、現在のベトナムに流れ着いた。漂着した勝成は現地人に殺害されたというが、この話も怪しいと言わざるを得ない。

 結論を言えば、山科勝成は想像上の人物だったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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