【戦国こぼれ話】切れ味は古今無双。黒田家に伝わった名刀「へし切」はどんな刀なのか!

日本刀の切れ味は抜群だが、名刀「へし切」は群を抜いていたという。(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

■「へし切」という名刀

 とにかく映画「鬼滅の刃」が凄い!今日も登校中の小学生が主人公になりきって、「鬼滅の刃」ごっこをしていた。圧倒的な影響力だ!

 「鬼滅の刃」では刀を用いた迫力満点の一騎打ちが見どころだが、戦国時代には切れ味抜群の名刀があった。それこそが「へし切」である!

 では、「へし切」とはどのような由来を持つ刀なのだろうか。

■「へし切」の由来

 「へし切」は、信長が黒田如水(=官兵衛)に与えた刀として知られている。では、いかなる由来を持つ刀なのだろうか。「へし切」が作刀されたのは、南北朝期といわれている。

 作者である長谷部国重は、山城国(京都)の刀工として建武期(1334~36)を中心に活躍した。国重はもともと大和の生まれであったが、のちに相模へと移り、長谷川鍛冶で修行を積んだという。

 国重は岡崎正宗の高弟である「正宗十哲」として知られている。正宗は、相州伝という刀剣の鍛え方を確立した刀匠である。相州伝とは地沸が強く、地景の入った鍛えに金筋と砂流しを強調した沸の強い刃文に特徴がある。ゆえに、「へし切」は山城で作刀されたが、相州伝の特長を兼ね備えているという。

■「へし切」の形態

 「へし切」の刃文は刃先だけではなく、皆焼という刀身全体に焼きを入れた技法が用いられている。この技法は、刀身に広い範囲で焼きを入れるため、極めて高度な技術で鍛える必要があった。

 また、刀身には良質な地鉄が用いられた。「へし切」は優れた技法が用いられているだけでなく、最高の地鉄を鍛え、美しく繊細な地沸が浮かぶ板目肌が大きな特長になっている。

 もともと「へし切」は、長さが3尺(約91センチ)あったというが、磨り上げることにより、現在の64.8センチになった。かなりの大太刀だったが、よりコンパクトになったのである。

 そのため銘の部分が削られてしまったが、刀剣鑑定家として名高い本阿弥光徳によって金象嵌の銘が切られた。現在でも光徳の入れた象嵌銘や朱銘は、「光徳象嵌」として珍重されているほどだ。

■「へし切」のエピソード

 「へし切」は最終的に黒田官兵衛が手にし、代々黒田家に伝わった。では、いかなる経緯によって、この刀は官兵衛の手元に渡ったのであろうか。この点に関しては、刀剣の鑑定などを業とする本阿弥正三郎の『名物三作』(弘化2年・1845の写)によって確認することにしよう。

 「へし切」については、織田信長にまつわる有名な逸話がある。ある日、安土城内で茶坊主である観内という者が、信長に無礼を働くことがあった。そこで、信長は観内を手討ちにしようとしたが、観内は膳棚の下へ隠れたのである。

 信長は逃げた観内を「へし切」にしたので(刀を振り下ろすことなく、膳棚ごと刀で押し切った)、「へし切」という名がついたという。相当な切れ味だったことがわかる。

■「へし切」伝来にまつわる異説

 『名物三作』によると、のちに羽柴(豊臣)秀吉が黒田長政に「へし切」を与えたというが、『名物三作』には後世の付箋が付いており、次のように記されている。

「へし切」は、小寺政職(御着城主で官兵衛の主家だった)の使いとして、孝高公(=官兵衛)が信長に面会したとき、中国計略の恩賞として与えられたものであって、秀吉から長政公が拝領したものではない(現代語訳)。

 付箋によると、『名物三作』の説は誤りであると指摘されているのであるが、どちらが正しいのだろうか。黒田家旧蔵の『黒田家御重宝故実』には「へし切」の由来について、信長が如水(=官兵衛)に与えたとある。

 つまり、『名物三作』には秀吉が長政に与えたと書かれているが、実際は信長が官兵衛に与えた可能性が高いかもしれない。

 黒田家では、「へし切」を「圧切御刀」と称した。それゆえ「へし切」に豪華な打刀拵を施したうえで、後世に伝えた。現在、「へし切」は国宝に指定されており、福岡市博物館に所蔵されている。