【「麒麟がくる」コラム】無事に上洛を果たした足利義昭と織田信長。その後、どうなったのだろうか?
■上洛後の足利義昭と織田信長のその後
大河ドラマ「麒麟がくる」も少しずつおもしろくなってきた。今回は、上洛後の足利義昭と織田信長の動きを確認することにしよう。
永禄11年(1568)10月14日、再び義昭は入京し、洛中の人々を安心させるために、軍勢が濫妨狼藉を働かないように警固を命じた。入洛した義昭は天下を掌握したことになったが、それは日本全国ではなく、畿内であることが近年の研究で指摘されている。
■征夷大将軍に就任した義昭
同年10月18日、義昭は念願だった征夷大将軍に晴れて就任した。浮かれた義昭は13番にわたる観能会を催そうと計画したが、これは信長によって5番に減らされた。理由は、まだ戦争が終わっていないからで、信長は浮かれている義昭に釘を刺したのだろう。
その後、義昭は信長に感謝の意をあらわすべく、副将軍か管領に任じようとしたが、それは辞退された。また、義昭は信長に管領家の斯波家の家督を与え、武衛(左兵衛督)に任じようとしたが、これも辞退された。信長はいずれの官職も受けなかった。
断った明確な理由は不明であるが、あえて義昭より格下の職に就くことを避けたのではないかと考えられる。あくまで信長は、義昭と対等な関係を望んだのだろうか。
ただ、義昭の信長に対する感謝の念は大きく、敵対者を退散させたこと、将軍家、室町幕府を再興させたことを称え、今後の治安維持を要請している(『信長公記』)。なによりも、義昭が信長を「御父」と呼んでいることに注目すべきだろう。義昭は信長なしでは、とても天下を治められないことを理解していたに違いない。
■この頃、ようやく明智光秀が登場
明智光秀が比較的良質な史料に登場するのは、この頃である。登場するのは、太田牛一の著作で信長の生涯を描いた『信長公記』である。
永禄12年(1569)1月5日、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)は、信長に敗れて阿波に逃れていた斎藤龍興らとともに、京都・本圀寺(京都市山科区)に滞在中の足利義昭を襲撃した(『信長公記』)。
三好三人衆は義昭の上洛を阻止できず、いったんは没落していたが、再び京都に攻め込んできたのである。このとき、本圀寺で防戦したのが光秀である。
■三好三人衆と義昭の死闘
諸将たちの顔ぶれは、義昭の直臣や一部の信長の家臣らであった。光秀の活躍ぶりは、あまり詳しく伝わっていない。本圀寺の戦いは大変な激戦で、義昭配下の足軽衆は20余人が討ち死にし、三好三人衆らの軍勢からも多数の死傷者が出た。
同年1月6日、三好義継、細川藤孝らが義昭を救うべく来援し、桂川(京都市西京区付近)で合戦におよんだ。義継らの軍勢は伊丹衆(池田勝正、伊丹親興など)、奉公衆と協力し、三好三人衆の軍勢を攻撃した(『言継卿記』)。
■信長、義昭を救う
同日、義昭から危急を知らせる一報を聞いた信長は、大雪にもかかわらず岐阜を発し、わずか10騎を従えて義昭のもとに駆け付けた。通常は3日の行程であるが、わずか2日で到着したという。
前年に義昭の上洛という目的を果たした信長は、木下(羽柴)秀吉ら諸将に約5,000の兵を与えて常駐させたが、まもなく彼らは京都を離れたと考えられる。信長は義昭の上洛を助けたが、この時点で京都支配を念頭に置いていなかった可能性がある。
この時点で、信長に天下への志があったか否かはよくわかっていない。いずれにしても、従来言われているような義昭の傀儡化は考えていなかったようだ。